昨日、私は国語が得意で、
それは読書と家庭内の会話で培われたものだと思うという話を書きました。
で、数学も結局論理だとは書いたのですが・・・
まず最初の入口は基本的な計算問題ですよね。
私はそういった、細かな計算作業も好きでした。
そして、この「好き」という気持ちは、父によって培ってもらったと思います。
父は、忙しい人でした。
いや、私の世代の父なんて忙しがって子どもの相手しない人が多かったと思うので、
そういう意味では一般的な父でした。
でもその父と、私と姉はたまーに親子で喫茶店などに行くことがあり、
そこで算数の計算問題集を解いていた、という記憶がかすかに残っています。
毎週日曜日・・・というほどの頻度ではなかったと思いますが、
そこのモーニングのメニューで焼き豚かオレンジを選べて、
いつも迷った挙げ句オレンジを食べていたこと、
(姉に確認したところグレープフルーツだったようです・・・私の記憶力なんてこんなもん)
そこで計算ドリルを繰り返して、より速くできたり、全問正解したりするのを、
ゲームのように楽しんでいたことだけはよく覚えているのです。
だから私は公文も算盤もやっていませんでしたが、
計算問題を解くのがキライじゃなかったし、
何なら解き直しも全然キライじゃなかったので、
算数のテストで見直しを欠かしたことはありませんでした。
父にとっては、子どもと遊ぶ方法なんて思いつかなくて、
マックとか喫茶店に連れ出しただけ、
何したらいいかわからないから勉強をさせていただけかもしれません。
私が高校時代に父が単身赴任だったときも、
私の模試の結果とかを送らせてああだこうだ言っていたので、
そういうものを通した関わり方の方がやりやすかっただけかもしれません。
でも私は、レアキャラの父と一緒に、
たまに食べられる何か素敵なものと、
算数の計算の楽しさが、
何かリンクしてとても楽しかった記憶として残っているのです。
「数学は答えが一つだから好きだ」とか、
「数学は美しい」って表現する人たまにいますけど、
私はそれにも共感します。
でもそういった、数学本来の素晴らしさや論理の美しさの魅力を知ったのは
もっとずいぶん大きくなってからのこと。
一番最初の入口は、父と行った喫茶店で、
あとで姉の焼き豚が羨ましくなっちゃうのはわかってるんだけど
結局グレープフルーツを頼んでいた思い出が、
何故かとっても楽しかったということだったのです。
大学時代に家庭教師をした数学が苦手な子に一生懸命教えて、
実際に数学の成績が上がったときに
「どう?できるようになったら数学楽しくなってこない?」と聞いたら、
「うーんでもやっぱり数学は好きじゃない」と返ってきたことがあります。
世間知らずで視野の狭かった私は、
勉強が嫌いな人はできないから面白くないんだろう、
ちゃんとやってできるようになれば好きになるはず!と信じていたので、
できるけど好きじゃない、ということがあり得るんだ、と驚きました。
でもよく考えてみれば、私は料理が昔から嫌いなのですが、
今は結婚しているし子どももいるので毎日作っています。
別に特別上手ではありませんが、まずくもない、
そこそこ普通に美味しいものを作っています。
でも、料理はやっぱり好きではありません。
できるけど別に好きじゃないってまさにこれじゃない!?
それは、私が初めて自分で毎日料理をするようになった時期が極貧で、
料理=やりくりだったことと無関係ではないと思っています。
こういった経験を通して、
私が「学ぶこと自体の楽しさ」を知る段階まで、普通に苦もなく勉強に取り組めたのは、
親に「勉強は楽しい」という原体験を与えてもらったからだと思うようになりました。
「勉強は」というより、「勉強につながることを親としていた時間」が
めちゃくちゃ楽しかった、それが自然と私を勉強に向かわせたのだと思います。
できるかできないかより、まず「楽しい、好き」が一番最初。
これは勉強に限らず、何でもそうなんじゃないでしょうか。
私が料理好きになるためには、
料理の楽しい思い出をもっともっとたくさん積み重ねることかな。
いつか、料理がしんどかった記憶よりも楽しかった記憶が上回ったら
料理を好きになれるのかも知れません。
次で最後になります。
何でこんな私が英語絵本読み聞かせの活動を始めたのか。
まあ、ここまでの文脈で何となく言いたいことわかると思うのですが、一応まとめます。