静かな暗闇の中、駆ける船。
新たな居住先を求めて人類が飛ばした船は、私を乗せてどこまでも果てしなく飛んで行く。
コールドスリープから目覚めた私が見た窓の外は、眠る前とさほど変化のない暗闇だった。
もう何年前のことだろう。
あの青い星を背に飛び出した我々は、様々な星のデータを観測し、故郷へと送り続けた。
始めの数年はとても面白く興味深い体験ばかりだった。
私と同じように船に乗り飛び立った同志とも連絡を取り合い、その星は前に俺が観測しただとか、新生爆発を目にしただとか、そんな話題に尽きることのない航行だった。
そうした連絡も、5年経った頃から少しずつ失われていく。
連絡の取れる圏外まで行ってしまった者。
既に意思を失った者。
原因は容易に想定出来る。
いずれは一人でこの広い海原を旅することになるのは分かっていたから、遂にその時が来たかとその程度にしか捉えてなかった。
コールドスリープを多用し始めたのもそのぐらいの時期だ。
流石に何年も一人でずっと星々を眺め続けるのには精神が持たなかった。
最後に通信した奴の言葉を思い出す。
「俺たちはきっと騙されたんだ。きっと俺たちを地球外に追い出すための口実だったに違いない。畜生……帰りたい…帰りたいよ…俺が何したって言うんだよ」
彼の言葉の真偽は私には分からない。
しかし私も疑問に思わないでもなかった。
私たちが記録したデータは、本当に地球に届いているのか。
もし届いているのなら、返事なり合図なりあってもよくはないだろうか。
現実的な話、データを集めるだけ集めてこのまま私たちを宇宙の果てに見殺すというのが、一番手っ取り早い調査手段であることは違いないだろう。
私はそのことを出発前にかすかに考えた。
だが既に身寄りのない私は例え考えが正しかったとて、この計画から降りることはなかっただろう。
報酬が一体どこに消えるのか、私はただそれだけが気になった。
再びコールドスリープの準備に取り掛かる。
窓の外はもう何年も前から変わらない。
星の光さえ失われ、今一体どこを飛んで、どこを目指しているのかすら分からない。
送るべきデータもなく、戻るべき術もなく、後は全てのエネルギーが無くなり物言わぬ塊になるのを待つだけだ。
恐らく次のコールドスリープから私は目覚めることはないだろう。
だから最後にメモでも残しておこうと思ったのは、ほんの気まぐれだった。
私は棚からメモ帳を取り出し、壁掛けからペンを抜いた。
『8/6 犬の散歩を忘れない』
そうだ、今日は妻が友達と温泉旅行に出かけると言っていた。
だから私が犬の世話をしないといけない。
危うく忘れてしまうところだった。
散歩を忘れると妻にもxxxxにも怒られてしまう。
前回うっかり散歩を忘れた時なんか、これ見よがしに私の目の前でxxxxが漏らしやがった。
別にわざとではなかったのかもしれないが、その時のxxxxの表情といったらもう……。
妻も(二重の意味で)激怒して泣く泣くボーナスで新しいカーペットとソファに替えさせられた。
まぁ私に非があるのだからあまり強くは言えないのだが、あのソファは絶対まだ使えただろうに。
だが今度はそうならないように、自分あてにメモを残しておいて良かった。
こうして人間は賢くなっていくんだな。
くだらないかもしれないが。
「xxxx、散歩に行くぞ」
リードを手にした音で理解したのか、私がxxxxを呼ぶ前にxxxxは既に私の前にお座りのポーズで待っていた。
全く賢い犬だよ、誰に似たんだか。
「さ、行こうか」
玄関を開け、xxxxが先導して家を出る。
ルートはxxxxにお任せだ。
普段行き慣れてるルートは一応把握しているが、私がわざわざ先行してxxxxを引っ張るのは何かが違う。
xxxxの行きたいように任せて、帰る時に誘導する。
それが私とxxxxの散歩のスタイル。
妻なんかはついつい奥様仲間とおしゃべりして、xxxxがじっと座って待っていたりするのをたまに見かける。
あれでは散歩というよりxxxxがお供している感じじゃないか。
xxxxがふいに右へと折れる。
普段なら左折して河原まで行くのだが、今日はどうやら街中の方へ行きたいらしい。
そういえば最近ガールフレンドが出来たなどと妻が言っていたから、会いに行こうという腹積もりなのかもしれない。
そのことに気が付いたからか、なんとなくxxxxの歩く速度が普段よりも早い気がしてきた。
こいつにもなかなかかわいいところがあるじゃないか。
勿論普段からかわいいのは言うまでもない。
同時に生意気でもあるから、私は滅多に口にすることはないが。
このわくわくするような足取りを見ていると、私にまでxxxxのドキドキが聞こえてくるようだ。
xxxxが足を止める。
眼下にはアスファルト。
ここの信号は押しボタン式だから、私が押してやらないことにはxxxxは向こうへと渡ることが出来ない。
なんて賢い犬なんだと惚れ惚れしなくもないが、xxxxが「早くしろ」と言いたげに私を見上げてくるのでさっさと私はボタンに手を伸ばした。
「あっ」
と声を上げる暇もなかった。
私の手から一瞬リードの感覚が無くなる。
眼の端に映るxxxxの姿は既に駆け足。
その先には止まるわけのない鉄の塊の群れ。
なにかを考える間もなく、私の脚が、私の腕が、私の身体が動く。
がむしゃらに伸ばした右手に首輪の感覚が戻った瞬間、それを振り下げxxxxの体を歩道の中へと叩き戻す。
勢いを殺しきれず転んだxxxxが短く鳴いたが、気にかけている暇はない。
xxxxを引き戻した反動で、当然私の体はアスファルトへ崩れ落ちる。
「なんだ、かわいいガールフレンドじゃないか」
向こう岸に息子自慢のガールフレンドがじっと座っているのが見えた。
毛並みも艶やかですらっと佇むその姿は、育ちの良さや品格が窺える。
飼い主が口元を手で覆う。
あぁ、ほら、リードから手を離したら危ないじゃないか。
xxxxが「わん」と泣くのが聞こえた。
真っ白のメモ用紙になにを書けばいいだろうか。
我に返った私は自問する。
今見た光景がなんだったのか。
疑問と混乱が入り混じる。
それを吟味して消化する気力の残されていない私の脳は、そこで考えるのをやめた。
少なくとも私の記憶にはない光景だったのは間違いない。
今のを書くべきだろうか。
書いて何になるというのだろうか。
ペンがくるりと宙を舞う。
一周、二週と回転したところで再びペンを握り、真っ白の用紙に走らせた。
きっとこの先誰の目にもつかないであろうメモ。
それでもこうしてこの船が走り続けていたということが、どこかの誰か、あるいはなにかに伝わればいい。
私はここまで来た。
だから必ずまた来る。
根拠もなくそう信じて。
いよいよ最後のコールドスリープ。
この装置にも随分とお世話になったものだ。
エネルギーが充填されたのを確認し、私は容器の中へと寝そべった。
見上げればそこには青い星の写真。
今なお青く美しい姿をそこに携えていることに私は満足し、容器の蓋を閉じた。
「あ」
私はその時確かに感じた。
この広大な孤独の世界へと旅立つ意思を。
新たな出会いと別れを求めて飛び立った何かを。
容器は満水になり、私は目を閉じる。
静寂だけが、最後まで私を抱きしめてくれた。
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ポン、ポン、ポン…とボールが踊り場を転がっていく。
鉄製の階段を転がった先には無数の子供たち。
彼らは我先にとボールに群がり蹴ろうとする。
不規則に弾むボールは蹴られまいと抵抗するも、無数の足には敵わない。
その内大きく跳ねてしまい、ごみ箱の中にすっぽりと嵌ってしまった。
それを見た子供たちは残念そうに肩を落とし、すぐに興味を失って消えていった。
どんよりとした空に、輝く星がいくつも流れていく。
箱の中から見える景色は鬱蒼としていて、だけれど不思議と落ち着くように暖かった。
心地よく揺れる身体に眠気を感じながらも、ボクはなんとなく流れゆく星を数えてみる。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
星を三つほど数えた辺りで光が滲み、遂には全てがゆらゆらと曖昧になっていった。
そして星は波間に流され消えていった。
星が消えた後も、ボクはぼんやりと大きく口を開けて上を向いていた。
揺れる景色に唖然としていたのかもしれない。
ほう、と大きく溜息が零れ出るのもやむなしだ。
溜息はぼわんと大きな泡となって、ぷかぷか彼方へと飛んでいく。
それを見て再び大きな溜息。
ほう…ぼわん…ぷかぷか。
溜息をつく度に白い泡となり、まるで雲のようにぷかぷかと揺れて飛ぶ。
なんだか楽しくなってきて、今度は思い切り息を吐き出した。
けれど泡は出なかった。
首をかしげてもう一度息を吐いても同じく何も出てこなかった。
息の吐き方がダメなのかと思って、さっきまでの溜息の真似もしてみた。
やはり泡は出なかった。
ボクは残念だと溜息をついてうなだれる。
ぼわん、とひときわ大きな泡が水面に揺れて行った。
とんとん、と何かを叩く音で目が覚めた。
それが壁の向こうから鳴る音だとすぐに気が付いた。
見上げれば、まだまだ起きる時間ではなかったようだ。
ボクは少しの苛立ちを込めて、壁を蹴って返事してやった。
うるさい、もう少し寝かせてくれ…と。
すると壁の向こうから音はしなくなり、ボクは安心して再び眠りについた。
「大きくなったらぼくのおよめさんになってね」
その言葉を聞いたのはいつ・どこだっただろう。
ボクには全く覚えがない。
見知らぬ子どもが微笑んで、見知らぬ自分の手を握る。
見知らぬ自分の鼓動が伝わり、鼓膜をどくどくという音で支配する。
自分はなんと答えるのだろう。
口を何度もぱくぱくさせて、ようやく喉から音が上がってくる。
まただ。
また壁の向こうから誰かが叩いている。
とんとん、とんとん。
もはや苛立ちすら覚えなくなり、反射のように壁を蹴って返事してやる。
そうするといつも通り向こう側は静かになった。
見上げれば雨がしとしとと降り注いでいた。
雨粒ひとつひとつがなにかを秘めるように輝いている。
ひときわ大きな輝きを見つけて目で追ってみると、地面を跳ねた瞬間輝きは失われてしまった。
地面だけじゃない。
ボクに当たった雨粒も光を失い、失った雨はどこかへと流れていった。
誰に対してか分からない優越感を僅かに感じながら、ボクは雨に濡れていった。
覆いかぶさる無数の手。
伸びる肌。
異物感。
掴めない藁。
色あせる太陽。
涙。
見知らぬ誰かが見知らぬ自分に笑いかける。
自分もきっと笑っている。
「今度の休みさ、映画でも見に行かない?」
そう言ってひらひらと二枚の紙切れを自分に見せる誰か。
紙切れに書かれている文字を認識することもなく、自分はこくりと頷いた。
壁の向こうがなにやら煩い。
怒鳴り声だろうか、金切り声だろうか、それとも悲鳴だろうか。
これがクラシックや洋楽だったとしても、きっと今のボクには同じに聞こえてるに違いない。
だからその音がなんなのかボクは気に掛けることもなかった。
ただひたすら煩いと、壁を蹴って抗議した。
音は止まなかった。
あれから壁を叩く頻度よりも、音が聞こえることの方が多くなった。
音は壁を蹴っても止んでくれない。
ボクはそれが苦痛で仕方がなかった。
早くこんなところとおさらばしたいと強く願った。
しかし無情にも願いが叶う日は訪れなかった。
幾月もすぎ、やがてボクは決意した。
ずっとずっと傍にあった柔らかくも丈夫そうな紐を手に取る。
それをぐるりと一周させると、少しずつ少しずつ紐の輪を小さくしていった。
たんぽぽの綿毛がボクを包むように飛び回る。
美しい白の光景に、ボクはしばしの間見惚れた。
そんな白さえも黒く染まればいい。
願わくば、安寧が訪れんことを。
ボクは一気に腕を引いた。
ボクの願いは叶わない。
世界はおぎゃあと白くボクを貫いた。
それは壊れた世界の物語。
誰が記したのか一冊の本としてまとめられた世界は、どうしてか僕の心を惹きつけた。
言葉に浮かぶ瓦礫のシャワー。
塵がゴム毬のように弾み、風が渦を成して四方八方から吹き付ける。
空は大地へと還り、土は宇宙の闇に呑まれた。
僅かの生命すら感じることの出来ない世界の中、僕は自分の両手を見る。
鮮やかな肌色のそれは、果たしてなんなのか。
細胞の塊なのか、繊維の束なのか、回路の集まりなのか。
自分の存在が曖昧になったその瞬間、僕は鎖が解かれたような、そんな錯覚を覚えた。
視界に広がる暗闇。
ここはどこか。
そこはどこか。
答えはこれから僕が造るのだ。
視界の端に捉えた真っ赤な光。
赤の中から青が腕を伸ばすのが見える。
赤は必死にそれを抑え込もうとする。
しかし僕は青い手を掴もうと、自らの腕を伸ばした。
何もなかった。
程なくして指先すら残らず青は消滅してしまった。
僕は何も思わなかった。
そういうものなのだと勝手に理解した。
赤は絶えず拡縮を繰り返す。
まるで鼓動のようだと、僕は赤いそれを見据えて呟いた。
安定した躍動。
一定のリズムで鳴る音楽に心地よさすら感じ始めていた耳の中に、突如異音が走る。
はっと振り返ると、遠く向こうの方から黄色い何かが向かってくるのがわかった。
あれはなんだろう。
音が近付くにつれ、黄色には大きさがないことに気が付いた。
言うならば、線、レーザー、ビーム。
そんな一本の黄色が走ってきた。
黄色は僕をものともせず貫く。
痛みはない。
衝撃もない。
僕には何の影響も与えることはなかった。
ところが黄色は僕を貫いた瞬間分裂し、あちこちへと向きを変えて飛び出した。
そして急な角度を付けて何度も何度も曲がりくねった後、黄色の大群は今度は赤を貫いた。
びくりと震える赤。
貫かれる度に鼓動は震え、悶えるように、苦しむように助けを請う。
非難の眼差しを僕に向けるも、その眼も黄色に貫かれてしまった。
僕にはどうすることも出来ない。
僕には何もない。
黄色の大群は瞬く間に数える程に減少していく。
その分だけ赤は揺れ、もがく。
懇願の言葉を発することも出来ないまま、最後の黄色に貫かれてしまった。
ぴたりと、赤が止まる。
子守歌のような鼓動ももう聞こえない。
今度は黒々とした斑点が赤を包み始める。
まるで出血しているかのようだ。
黒の浸食はじわじわと進んでいく。
先ほどまでの黄色に比べれば、相当じっくりとしたものだろう。
ここでもやはり僕にはどうすることも出来ない。
動くことも出来ない。
ただただ成り行きを見つめることだけ。
僕はなんなのだろう。
者でも物でもないのなら、一体何モノだと言うのだろう。
僕はここにいる目的を知らない。
理由も知らない。
だってそれはこれから僕が名前を付けていくべきものだから。
そうだ、まずは最初に僕に名前を付けよう。
何がいいだろう。
せっかくだから「神」とでも呼ぼうか。
そんな冗談を考えている内に、斑点は大きくなっていく。
よく見れば斑点の中央がぷっくりと膨らんできているのが分かる。
どんどん中から何かが押し上げているようだ。
斑点が広がるにつれ、膨らみも今にも黒を突き破りそうになってきた。
そして赤だったものが黒に染まるその瞬間。
塊は爆発した。
飛び出したのは青や緑、紫に茶、他にもたくさんの色。
白や黒も、なんと黄と赤も飛び出した。
僕の顔に爽やかな風が吹き付ける。
さらさらと撫でるような手つきで、色たちは僕に笑いかけて飛んでいく。
塊はもうどこにもなく、代わりにそこには光があった。
光を遮る色々がどんどんと飛び去って行く。
残された光は煌々と輝き、僕は思わず目を閉じた。
誰かが笑う声が聞こえた気がして、僕は恐る恐る瞼を開けていく。
どうやら光は消えたらしい。
もう眩しくない。
それを確認した次の瞬間、僕は目を見開いた。
広がる光の粒。
それぞれがそれぞれの輝きを持っていて、まるで宝石の海にいるようだった。
美しい、と思った。
いつまでもこの海を泳いでいたいと思った。
でもそうする訳にはいかない。
答えはまだまだ先にあることを、僕は悟っていたから。
ここが終着点ではない。
もしそうだったなら良かったのにと、僕は残念な気持ちでページを捲る。
そして現れたひとつの球。
僕はこれを知っている。
名前は思い出せないが、僕にとって重要なものだったのは間違いない。
じっくりと観察すると、表面が様々な模様を刻んでいた。
時には緑の円だったり、時には茶色の四角だったり、また時には灰色のモザイクだったりした。
僕は手を叩いて笑いながら模様の移り変わりを眺めた。
最後に訪れる瞬間を知っているから、笑った。
どうしようもなく可笑しかったんだ。
僕は目まぐるしく変わりゆくその球をそっと抱きしめた。
大切な人を抱きしめるように。
優しく愛しく。
最期の時まで。
蛍光灯がチラつく。
それが煩わしくて僕は顔の前に手をかざして光を防いだ。
そうしてゆっくりとため息をつく。
答えは決まった。
軋む床に手を降ろして、上体を起こす。
左手の下敷きになっている本を一瞥して、僕は再度息を吸い込んだ。
またね。
氷に閉ざされた大地。
広く海を閉ざし、全てをその胸に隠して山は静かに眠る。
夢を見るは少女の願い。
望んだあらゆるを見せ、祈った光を優しく包み込んだ。
空を映し、木々を揺らし、土を掘っては水を浴びせた。
少女は言う。
もう随分と寝たと。
山は答える。
まだ夜明けには早いと。
そうなのかな、と少女は頷く。
そうして再び微睡み瞳に影を落とした。
何百年何千年と繰り返したやり取り。
無限にも続くと思われた再生。
そこにいつしか綻びが生じることを、彼女たちは分かっていた。
だから少女は、山は驚かなかった。
突如訪れた目覚めの時に。
最初に少女をくすぐったのは、甘い花の香り。
続いて雪の混じる風の渦。
そして血の匂い。
生命の途絶えたこの世界で、それらは生き生きと空を舞う。
早咲きの桜。
柔雪を持ち上げる新芽。
純白に混じる色彩。
まだまだこの世界は冬の真っただ中。
なのに空気は春が来たと告げている。
そんな矛盾のような摂理。
少女にとってこれは単なる巡りに過ぎない。
この春もいずれは消えゆき、夏に呑まれ秋が貪りそしてまた冬が腰を据える。
だから、少女は起きようと思った。
起きて見に行こうと。
閉ざされた大地を開いたモノが一体何なのかを。
一人分の足跡を刻みながら進んだ先に、件の扉はあった。
扉を開けた人間は既に息絶え、亡骸に残されているのは僅かな感情。
会いたいよ。
少女は自然とそう、小さく開いた口から零した。
凍てついた唇がパキパキと鳴る。
そして一歩、扉の向こうへ立ち、優しく髪を撫でる山を振り返って微笑んだ。
「いってきます」
静かに閉じる扉のこちら側。
氷は溶けることを拒み続け、花は咲かんともがき続ける。
少女を見送った大地は僅かな夢の中へと身を委ねることにした。
待つことには慣れている。
たった数年ぐらいなんてことはない。
それでも「ようやく会えた」と心は高ぶった。
残された感情は少女を動かし、少女はその感情に溺れる。
一度も会ったことのない人間の顔を眺めては頬を緩ませた。
魔物とはなんだったか。
少女は人々の言葉に耳を傾けた。
この世のモノではない獣だろうか。
精神状態の乱れからくる幻だろうか。
きっと答えはない。
それが獣に見えたなら、彼女にとっては獣だったのだろう。
それが乱れだったのなら、彼にとっては乱れだったのだろう。
少女は少年を微笑み交じりに見つめた。
獣など見えず、心乱れることもなかった少年は、静かに目を閉じ祈りを捧げる。
祈りの矛先に一体誰が、何がいるのかもわからずに。
彼に少女は見えるだろうか。
見えたところでどうしようもないことだが、少女は少し気になった。
いつまでもこの世界に居続けるわけにはいかない。
扉の向こうでは永遠の地が少女の帰りを待っている。
かの世界が向かう先へと進むために、もしくは留まるために。
少女とともに向かうために。
少しだけ少年に向けて手を振って見せる。
こちらを見ていたような気がしたが、そんなことはなかったようだ。
間もなく背中を少女に見せて少年はその場を去った。
少女は静かに扉に手をかける。
この胸の中にある不思議なもやもやをお土産に。
遠くで雪解けの音が聞こえた。
それをBGMにしながら冬が眠たそうに苦笑を交じえて答える。
「おやすみなさい、待ってるよ」
木々の隙間から聞こえる風音。
昼間にも関わらず薄暗いこの山には魔力が宿ると言われていた。
辺りの山々から頭一つ飛びぬけており、まるでここの主であるかのような雰囲気と圧力。
確かに魔力を帯びても何ら不思議はない。
しかし実際のところ、この山に魔力なんてものは宿っていなかった。
調査の末行きついた結論に、わたしはため息をつくことしか出来ない。
背もたれを軋ませながら天井を見上げる。
蝋燭の炎に揺れる影が大きなったり小さくなったり。
それはまるで化け物のようにわたしに覆いかぶさり、ゆっくりと瞼を落とさせた。
この山に宿っているのは、紛れもなく魔物だ。
「あの山の魔力調査、ですか?」
「そうだ、最近になって魔力が継続的に観測されるようになったとの報告が上がってきているんだ」
今まで何もなかったところに突如煙が上がれば、そこには何かしらの火があったはず。
"何かしら"が悪影響を及ぼさないか、また利用出来ないか。
それを調べてこい……という指示だった。
久しぶりにゆっくりと休めると思った矢先にこれだ。
あからさまにテンションが下がってますよーとアピールするように、大げさに肩を落とす。
そんなことをしてもやることがなくなるわけではないが、上司の同情はどうやらいただけそうだ。
「まあそうがっかりするなよ、報告さえしてくれればそのまま自由に行動してくれていいから」
苦笑交じりにひらひらとわたしを促す上司。
ここで不貞腐れていても仕方がない。
必要最低限の荷物をささっとまとめると、わたしは事務所の扉をがらりと開いた。
ひんやりとした風がわたしの頬をくすぐる。
枯葉が視界を横切り薄雲が空を覆う。
雨が降るとは聞いていないけれど、これはなんだか一雨来そうな予感だ。
魔力が場に宿る、というのは実は珍しいことではない。
誰かがそこで死んだとか、毎日お祈りを捧げたとか、綺麗な景色だからと写真を撮っただとか、そんな大小様々なことで宿る。
大抵そういう魔力の持続力は弱く、放っておけばすぐに消えていくものばかり。
中には観測されることなく生まれては消えている魔力も多いことだろう。
しかし、長い間魔力を宿し続けているとなるとこれは軽視出来ない。
魔力は宿る時間が長ければ長いほど強力なものになっていく。
この魔力が何らかの形で放出された場合、周囲に多大な被害をもたらす。
下手をすれば一帯に土のカーペットしか残らないこともある。
そういった被害を食い止めるべく、わたしたちは溜まっている魔力がどういうものなのか、どうにか発散させられないか調査し処理するのだ。
そしてもうひとつ。
魔力に人為的介入がなされていないかどうか。
仮に何者かが魔力を貯めているのだとすれば、それは非常に危険な存在となる。
もし"何者か"が存在するならば、その目的の解明と排除を行う必要がある。
勿論"何者か"もすんなりと魔力を手放すとは考え難いので、この場合は非常に困難を極めることを覚悟せねばなるまい。
とは言え、"何者か"をどうにかすれば事はほぼ解決なので、ある意味楽な方なのかもしれない。
今回はそれら2つとは異なるパターンだった。
確かにこの山には魔力が帯びている。
どうやらこの夏の終わりぐらいから帯び始めたようで、総量自体はまだそこまで大したことはない。
しかし冬になればこの山を覆うぐらいには膨れ上がってしまうだろう。
そして春には山そのものが魔力の塊になっているかもしれない。
魔力の溜まるペースが尋常じゃない。
こうして小屋にいる間も、じわりじわりと空気に魔力を帯びていくような、そんな錯覚すら覚える。
原因はただひとつ。
魔物が住み着いたのだ。
当然排除は必須である。
出来なければこの辺り一帯は魔物の支配下となるだろう。
そうなったらこの地域に住む人々の命は……。
くしゃりと髪をかき上げる。
まさか自分が魔物の担当をすることになるとは夢にも思わなかった。
一応上司に報告を送ってはおいたが、返事はあまり期待出来ない。
既にここは魔物の支配下になりつつある。
明日の朝にはここを発って魔物を探しに行かねばならない。
いや探す必要はない。
調査の最中にわたしは見たのだから。
だからすぐに魔物の仕業だと気が付いたのだ。
目指すは山頂。
四つ足の魔物を絶つ為にも、今は力を蓄えるのだ。
今度の休みに会う予定だった恋人の顔を浮かべながら、わたしは少し眠ることにした。
気温は氷点下。
雪に解ける白い息。
見上げても見えるのは緑の影ばかり。
頂上が近付くにつれ、足元の傾斜と雪の厚みがきつくなっていく。
麓の方はまだまだ紅葉の名残も見えたが、ここまで登ると流石に景色は冬のそれに近かった。
どこか遠くで口笛のような鳴き声が聞こえる。
こんな高所にも鳥が住んでいるのだと少し感動を覚えた。
一息つきながら振り返ってみると、霧の海に溺れた下界がよく見渡せた。
きっと普通に登山しに来ていたら、思わずカメラを取り出して何枚も何枚も撮影をしたことだろう。
それほどまでに美しい景色を背にし、わたしは再び登り始める。
そうしてどれほど登っただろうか。
足元には岩肌が目立ち始め、頭上はすっかり青空がわたしを照らしている。
そして青空の向こう側に、四つ足でこちらを見つめる影があることにわたしは気が付いた。
わたしは進むのを止め"そいつ"をじっと睨む。
一歩、また一歩とわたしを警戒するように木々の間を横切ろうとしている。
ここで出会ったのが運の尽きだ。
わたしは木々の隙間から"そいつ"の顔が現れた瞬間、即座に銃を取り出し引き金を引いた。
ぱんっ。
影に花が咲く。
よたよたとふらつく影に、わたしは駆け寄りもう一度引き金を引いた。
ぱんっ。
ばすっ、と雪に穴が開く。
外したっ!?
そう思った瞬間、視界の隅から影が飛び出してきた。
どろどろに口元を歪め、ごぽりと流れる魔力。
大きく開いた口の中は闇で覆われ、黒く光る瞳には快楽の表情があった。
四つ足はこの世にないのかブレて見え、溶けるような胴体から滴る闇は虚空へと消えゆく。
弾が命中した部分が赤く光り、まるで獣の鮮血を表現しようとしているかのようだ。
影の口がわたしの右腕に食らいつく。
噛み千切られてたまるかと、わたしは銃を左手に持ち替えて影の眉間をぶち抜いた。
上顎が溶けるようにわたしの右腕から滴り落ちる。
腕に残されたのはまだら模様に浮かぶ無数の痣。
こいつは肉を噛み千切ったりするのではない。
腕をそのまま魔力へと分解するつもりなのだ。
影が再び木の影へと姿を隠す。
確かにそこにあるのに、右腕の存在感が少しずつ失われていく。
二発もぶち込んだのにまだ生きている"そいつ"に少し心が負けそうだ。
対魔物用に作られた弾丸のはずなのだが、流石に一撃必殺というわけではないようだ。
「……ってかさぁ、こんなこと乙女にやらすなよ」
思わず漏れた愚痴とともに再び引き金を引く。
引く。
引く。
左のふくらはぎの存在が消えた。
それでも足はきちんと胴体と接続されているらしく、少しよろめく程度で済んでいる。
正直影が衰えているようには見えないが、せめて持っている弾は全部ぶち込んでやりたい。
ざわざわと葉が揺れる音がする。
風が木々を抜けて音楽を奏でる。
雪はしんしんと息を潜め、山は静かに震える。
銃声というのは意外に大きな音であることを、わたしの耳は感じ取った。
背後から跳ねる影。
直感が働いたのか即座に振り向き何度目かの引き金を引く。
弾けた影はわたしを通り越してまたも気の影へと姿を隠す。
当たっていることは間違いないはず。
弾倉を確認すると残る弾は後一発だった。
予備はリュックの中だが、肝心のリュックは最初に駆け出した時点で置いてきてしまった。
取りに行く余裕は当然ない。
心なしか少しサイズの小さくなった影が、木々の合間をジグザグに駆けてくる。
右か、左か、はたまた後ろか。
身体のあちこちが自分のものではないかのような感じ。
わたしもこの山の一部になりつつあるのだろう。
仮にこいつを仕留めたとしても、わたしは……否。
仮に、ではない。
必ず仕留めるんだ。
「あーあ、折角彼に会えるはずだったのになぁ……」
ぱぁん……っ。
【調査報告書】
該当の山から観測された魔力の縮小を確認。
同時に頂上付近で雪崩があった模様。
初期調査に赴いたグラシアの行方は現在も不明。
近隣からの情報にそれらしき女性のものがあるものの、グラシアとは別人のようだ。
山には魔物の痕跡があるが、姿や反応は確認出来ず。
また人為的魔力ではないと断定。
この山に関する調査を終了する。