幼い頃からずっと、「素敵な母親」というものに憧れていた。

それは、17歳まで育った家庭が、最高の環境だったから。


自宅に帰ったら「今日は何があったの?」という母親からの問いかけが必ずあり、

制服を着たままで30分以上、母とおしゃべりをすることが私の日常風景だった。

自営業をしていたので帰宅後に母がいない日も結構あったけど、

母の母(おばあちゃん)がいてくれたし3歳上の姉もいたので、寂しい思いをすることもなくすくすくと育った。

これは高校生になっても変わらなかったけど・・・17歳になったばかりの頃、大きく変わることになった。


母が、白血病であることがわかった。

私は沢山泣いた。


すぐに母は自宅から1時間ほどの大学病院に入院した。

母がいなくなった家は、幸せな毎日から一変した。

父は仕事で帰宅は夜中、祖母はこの頃には認知症になりかかっていたので、

頑張って食事の準備をしようとしてボヤになりかかったことも何度もあった。

大好きなおばあちゃんだったけど、プレ受験生&母がいない寂しさから祖母につらくあたってしまったことも・・・実は何度もあった。


でも・・・母にはとてもそんなことは言えない。


何とか元気になってもらいたいけど、高校生のわたしには当然治療はできない。

私にしかできなくて母が喜んでくれること・・・毎日あったでごとを伝えることだった!!!

「今日何があったの?」という会話を再現すること。


それから私は、筆箱に小さなメモ用紙を入れておき、授業中であってもおもしろいネタを思いついたらメモ用紙に書いた。

「○○先生が今日も××という面白いことを言っていた」

「友達の○○ちゃんのおうちでは、××というハプニングがあった」

「私の好きな○○くんは、今日は××な様子だっだ」

「英語のテストでは、○点だったけど、今度は××について頑張ろうと思う」

・・・日中に集めたこれらのネタを、毎日伝えた。

可能な時には電話で、母の調子が悪くて電話もできない日には手紙で。


その甲斐あって、母は私と一緒に住んでないのに、

お見舞いに来たお友達のお母さんが知らないような出来事まで知っていた。


週末は、父の車にのって母の病院までお見舞いに行った。

いつもは電話でしか話せない母に会えるこの時間が、本当に本当に楽しみだった。


でも・・・勉強がハードになりつつあった私は、手紙やお見舞いの時間を捻出するのに四苦八苦していた。

その時の志望校は東大で、周りは万全の環境で勉強に集中していた。私は母が病気になったことで送迎が困難になり、塾通いすらやめていた。

母親が病気の時にこんな状態で勉強するなんて中途半端、いっそのことやめて母ともっと一緒にいたい。

そんな私に母は言った。

「東大に入るって決めたのは、あなたでしょ? じゃあ、頑張りなさい。お母さんのことはどうでもいいから、あなたは自分が信じた道を行くのよ。お母さんはお母さんで、治療をがんばるから」

・・・その言葉にうじうじとした悩みがすっと消え、よーし、じゃあこれまで以上に勉強とお見舞いを両立させるぞ!!と決意が固まった。


少しでも時間捻出をするため、シャンプーもリンスインシャンプーに変えたりした。

当然、毎日の電話か手紙は続けた。


そして4ヵ月後、母の白血病は一旦治癒して、自宅に戻ってきた。

治療を経てすっかり髪の毛は抜けて細くなってしまった母を、みんなが大切に大切にしながら毎日をすごした。

まだまだ本調子ではないけれど、ニコニコした母が家にいてくれるだけで幸せだった。


やっぱり母親の存在は、家族にとって特別だと思った。