ここにいるということ #47
しんとした夕暮れの中、ハルの声だけが耳に響く。
目の前にいるハルが何故かとても儚げに見えて。
言葉が詰まって出てこなかった。
たくさん聞きたいことがあるのに。
なのに。
「ピアノは弾けない。あなたが知ってる私は今の私じゃない。きっと今、ピアノを弾けたとしても、あなたの心に残るような演奏はできない」
暫くの沈黙の後、声を振り絞って言う。
こんなこと言いたいわけじゃない。
弱い自分を見せたくなんかないのに。
そう思った時だった。
ハルが私に近づく。
そして、不意にぎゅっと私の身体を抱きしめた。
――――――――― え?
ハルの胸に顔を埋められて、困惑しながらも、その暖かな腕を無理に逃れようとは思わなかった。
「ゴメンナサイ。なんか、こうしないと塔子さんがいなくなっちゃいそうで」
そのまま動けないでいる私の頭の方から、ハルの声がする。
「そんな辛そうな顔しないで。オレ、どうしていいかわかんなくなる」
くっついたハルの胸から、速まっていく鼓動が間近に聞こえた。
それと同調するかのように、私の鼓動も自然に速くなる。
温かい感触。
人の体温をこんなにも近くで感じたのはどのくらいぶりだろう。
冷たくなった心ごと、暖められていくようなハルの温かさが伝わってくる。
「ヤバイ。またオレ、塔子さんに怒られちゃうね」
そう自分を茶化しながら、ハルはそっと私の身体から腕を離してくれた。
ほんの数秒のことだったのに、とても長い時間抱きしめられていたような感覚になる。
おとなしく抱きしめられてしまった自分が妙に恥ずかしくて、顔を上げられなくなった。
「………オレさ、」
ハルが何かを言おうとしたとき、走ってきたタクシーのライトが私たちを照らし出した。
思わず2人ともそのタクシーの方を見る。
私たちのすぐそばで止まったその車の中から、女の子が慌てたように急いで降りてきた。
「絵里香」
その女の子を見て、ハルが呟く。
絵里香と呼ばれたその子は、先日ハルの代わりに図書館の本を返却しに来た女の子だった。
ハルの、彼女。