せつない恋のはなし -535ページ目

ここにいるということ #47

しんとした夕暮れの中、ハルの声だけが耳に響く。




目の前にいるハルが何故かとても儚げに見えて。




言葉が詰まって出てこなかった。




たくさん聞きたいことがあるのに。




なのに。










「ピアノは弾けない。あなたが知ってる私は今の私じゃない。きっと今、ピアノを弾けたとしても、あなたの心に残るような演奏はできない」






暫くの沈黙の後、声を振り絞って言う。




こんなこと言いたいわけじゃない。





弱い自分を見せたくなんかないのに。







そう思った時だった。









ハルが私に近づく。










そして、不意にぎゅっと私の身体を抱きしめた。












――――――――― え?










ハルの胸に顔を埋められて、困惑しながらも、その暖かな腕を無理に逃れようとは思わなかった。








「ゴメンナサイ。なんか、こうしないと塔子さんがいなくなっちゃいそうで」





そのまま動けないでいる私の頭の方から、ハルの声がする。





「そんな辛そうな顔しないで。オレ、どうしていいかわかんなくなる」





くっついたハルの胸から、速まっていく鼓動が間近に聞こえた。






それと同調するかのように、私の鼓動も自然に速くなる。








温かい感触。





人の体温をこんなにも近くで感じたのはどのくらいぶりだろう。







冷たくなった心ごと、暖められていくようなハルの温かさが伝わってくる。












「ヤバイ。またオレ、塔子さんに怒られちゃうね」





そう自分を茶化しながら、ハルはそっと私の身体から腕を離してくれた。



ほんの数秒のことだったのに、とても長い時間抱きしめられていたような感覚になる。




おとなしく抱きしめられてしまった自分が妙に恥ずかしくて、顔を上げられなくなった。






「………オレさ、」



ハルが何かを言おうとしたとき、走ってきたタクシーのライトが私たちを照らし出した。




思わず2人ともそのタクシーの方を見る。


私たちのすぐそばで止まったその車の中から、女の子が慌てたように急いで降りてきた。




「絵里香」



その女の子を見て、ハルが呟く。



絵里香と呼ばれたその子は、先日ハルの代わりに図書館の本を返却しに来た女の子だった。






ハルの、彼女。