コロナ考(30万vs10万、補償問題)。西洋哲学史II。 | 駐在員さん 〜2周目のアメリカ生活〜

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米国、一時フランス、中国、米国再駐で通算25年加算中。慶應大文学部卒。経営ノウハウの学術化を目指し、仕事の傍ら米アイビーリーグのブラウン大学の大学院で勉強してます。
延べ21年目のアメリカAnother Skyから発信します。

コロナ考

30万と10万
10万vs30万。本当に困った人に厚く充てるのを拒否し、広く分厚い中間層も貰えるように要求したのは世論であったということ考えなきゃね。非常に功利主義的だなと感じた。
それを賛成しておいて「困ってる人が〜」といってる人らに偽善を感じる。

自粛と経済補償のセット論
海外でも売上の保証はしていない。一方で英独など雇用の維持のため給与のある程度の補償と生活費の支援をやっている。

自粛を徹底的に、ロックダウンまでと考える主張は人命重視的である。(経済的ロスも結局はnet最小化ではないかとも。)

自粛するには、さらに補償出せ出せという主張も多い。この主張の本質は、人命を完全には最優先とはしていないこと、そしてコロナとの戦いを社会内への闘争に持ち込んでいるものといえる。将来に回ってくるツケも明示しない。手法的にも人質的で無責任。

そしてもうひとつのスタンス。これが今の政府の考え方(にみえる)。
自粛は求めるが、経済も回したい。ハッキリ言わないのは、補償の経済負担が青天井となりえるパンドラの箱の大解放に対する恐怖と淘汰自己責任論、不正の可能性など簡単には譲れない考え方とも相容れないためなのだろうけど、単に渋ってる感が否めない。よくいえば、中庸的。

「命を守る」言いながら経済と将来のツケも気にしているので、そのことばに空疎な響きを感じる。結局は中庸のスタンスは無責任。
信用が得られないのは、国民を信用していない思想が根底にあるのではないか。

つまり、3者とも非常に無責任な議論だと思う。なぜか。

①人命、②経済ダメージ、③将来のツケ、④社会の自己責任の持続的発展(淘汰と萌芽)の四つを俎上に上げないでで論じているからであり、レトリックに終始している。どれも無責任で分かりにくい。

少なくとも私には全く響かない。

西洋哲学史II
『道徳形而上学原論』(課題)の精読は終えましたが、さらに『実践理性批判』も精読中。以前に比べスっと入ってきます。
最初に読んだのは「倫理学」の課題に選んだとき。「序」の数行でギブアップでしたが、何とか読んで、レポ出して合格。

今読み直すと、当時の理解力で良く合格したなと思う。

とにかく表現が精密を期してるので難解。

意思を持つとき、その根拠は、必然性やしがらみなどですが、実世界からではない心の奥底から発する正義の声に従うことも意志を持つ時の根拠だよねー。という説明をカントさんはこう表現する。


私達が日常認識する自然の必然性やしがらみなどにせよ、心の奥底から発する正義にせよ、私達が認識を構成する機能(悟性)が「意思決定するための原因」だよって意識するということカントはこう表現する。


新緑と夕焼けと
新緑がいい感じです。


カフェでブランチ。


ユニクロで日本経済に寄与。
観光地頑張れ。部屋でしか着れないな。

他にも色々。結構爆買い。


夕焼けはいいですね。
日が落ちたあと、闇が迫る前に濃く美しい一瞬。


からのお寿司。