1488年7月17日(長享2年6月9日)は加賀国(現石川県南部)で本願寺門徒による一揆が起こり、加賀国守護富樫政親が殺害された加賀一向一揆が起こった日にあたります。




応仁元年(1467年)、応仁の乱が京都で起こり、政親は細川勝元側の東軍に属しました。
しかし、弟の富樫幸千代山名宗全側の西軍に属して戦ったため、兄弟同士で対立が起こり、家督を巡って弟と争う羽目になります。
文明5年(1473年)に真宗高田派甲斐敏光手を組んだ幸千代に敗れて政親は加賀を追われてしまいますが、願寺の援助や加賀国内の武士団の支持を得て逆に幸千代を加賀より追い出すことに成功し、家督を継ぐことになります。
本願寺はこの活躍で政親から保護を受ける事を期待していましたが、政親は急激な勢いで勢力を拡大していく本願寺に不安を感じ、文明7年(1475年)に本願寺の弾圧ならびにそれとつながる豪族のの勢力を統率しようと企てます。
このため、本願寺と豪族勢力(窪田氏・徳田氏など)が手を組み、長享2年(1488年)石川郡高尾城に攻めかかり、政親はこれを抑えきれず自害します。
政親の家督は大叔父の富樫泰高一向一揆により擁立されますが、実質上の権力はなく、加賀国は本願寺蓮如の三人の息子(松岡寺住持蓮綱・光教寺住持蓮誓・本泉寺住持蓮悟)が握り、傀儡として当主とされていたのだが、国内の荘園を押領して独自の権力の強化に努めていきます。




これ以降加賀国は日本で唯一百姓が支配する国として続き、織田信長が本願寺を倒す天正8年(1580年)までの約90年間、加賀は『百姓のもちたる国』と呼ばれる状況となります。