1571年7月6日(元亀2年6月14日)は中国地方の覇者毛利元就の命日にあたります。

元就の半生については弱小国主から中国地方の覇者へ。毛利元就その1弱小国主から中国地方の覇者へ。毛利元就その2弱小国主から中国地方の覇者へ。毛利元就その3 参照してください。




元就は引治元年(1555年)の厳島の戦い陶晴賢を倒し、引治3年(1557年)大内家を滅ぼします。
そして元就は嫡男毛利隆元に家督を譲ろうとしますが、隆元はこの時まだまだ自分は未熟者と言う理由で家督相続を拒否します。
そのため、元就は隆元に内政のみを任せ、元就は外交と軍事を引き続き行っていきます。
しかし、元就は毛利家の家督を完全に隆元に譲ること無く、隆元は暗殺されてしまったため、元就は実質死ぬまで実権を握ることになります。




引治2年(1556年)以降、山吹城を尼子氏に攻略されてしまったため、中国地方でも重要な資金源となっていた石見銀山の支配権を失ってしまいますが、永禄3年(1560年)に尼子氏当主尼子晴久が死去します。
突然の晴久の死去により、尼子氏では動揺が広がり、晴久の嫡男尼子義久は13代将軍足利義輝和睦を願いますが、この和睦を元就は完全に無視します。
自分の立場を丸つぶれにされた義輝は当然毛利に対し怒りをあらわにしますが、元就の息子隆元と小早川隆景は毛利にとって利がない和睦はする必要ないとし、やはり尼子氏の和睦を無視する意見に出ます。
石見国の東側は尼子方に傾いていて、さらに出雲から派遣されていた尼子氏家臣本城常光牛尾久清多胡辰敬は西石見で反毛利方として反乱を起こしていた福屋隆兼を支援していましたが、義久は義輝の面子を保つためまた、曾祖父経久の代より蓄積されていた家臣団の不満や内部抗争の調停を終息させたかったのか、毛利氏との早期和睦を望み、これを良しとした元就は和睦の条件として『石見不干渉』を申し出ます。
早期和睦が出来るのならと義久は即座に同意したが、これは石見で反毛利方として福屋氏を支援していた尼子諸将や尼子方国人、福屋氏にとっては立場が無くなってしまいます。
これにより石見での尼子氏の前線は一気に崩壊し、常光は離反、辰敬は石見岩山城で自害すると言う事態に発展してしまいます。
まんまと石見を手に入れた元就は形勢が逆転し、和睦を破棄し、永禄5年(1562年)出雲侵攻に乗り出します。
この時月山戸田城の防衛網である『尼子十旗』を守備していた西出雲国人三沢氏・三刀屋・赤穴氏・米原氏が毛利に寝返りをし優勢になりますが、義久は危機的対抗策とし九州の大大名である大友宗麟と同盟を結んだり、東出雲・伯耆・備中・美作の尼子方が結束し毛利氏に対抗したことにより、この出雲遠征は4年の年月を費やす事になります。




元就はまず月山戸田城の玄関口とも言える白鹿城を落とす事から始めます。
またこの城は日本海に面していた事もあり、船により兵糧物資を輸送し、月山戸田城に送っていたため、どうしてもこの城を落とす必要もありました。
しかし、白鹿城を包囲していた時毛利方に予期せぬ出来事が起こります。
永禄6年(1563年)9月1日、当時幕府の仲介を得て大友氏と和議を結んだ隆元は、遠征軍に合流すべく白鹿城に向かっている途中、備後の和知誠春からの饗応の直後に急死します。
死因は食中毒とも毒殺とも言われ、これを聞いた元就の悲嘆は尋常なものではなく、隆元殺害に関与したと思われる和智誠春柚谷新三郎湯谷又八郎又左衛門赤川元保らを暗殺の疑いで誅伐、もしくは切腹に追い込んでいます。
ただし、赤川元保に関してはえん罪の可能性が後に浮かび元就は後悔したとも言われています。
隆元の死により、元就は兵に

『隆元への追善は尼子氏の撃滅のほかになし』

と激を飛ばし、士気を奮い立たせます。
9月下旬に義久は弟尼子倫久らを援軍に送りますが、毛利軍の包囲網を突破することが出来ず、これにより城兵の士気は一気に下がり、10月に降伏します。
白鹿城の陥落により、毛利氏は次々と尼子氏の支城を落としていき、とうとう月山富田城は補給線を断たれ孤立してしまいます。



永禄8年(1565年)4月17日に毛利軍はとうとう月山富田城に総攻撃を開始します。
しかし、尼子氏の士気は高く、連日攻め立てるも毛利軍は城内侵入を阻止されてしまい、28日に総攻撃をいったん中止し、撤退します。
同年9月に毛利軍は再び月山富田城を包囲します。
この時飯梨川を挟んで対峙していた両軍の中で尼子十勇士の一人山中幸盛(鹿介)と品川将員(大膳)が一騎打ちをし将員を討ち取った事は有名です。
毛利軍は力攻めはせず、包囲させることにより兵糧攻めを行っていき、次第に城内の兵糧が窮迫していきます。
この頃になると城内から投降者も出始めましたが、毛利方は城兵の降伏を一切認めず、投降してきた城兵たちは処刑されました。
降伏した城兵を受け入れると次々と投降者が続出し、その分城の兵糧を食いつぶしてくれる人が減ってしまうため投降を許さなかったとされています。
冬になり兵糧が底をつき始めた頃に降伏を認める高札を立てたため、城兵は続々と投降し、さらには尼子氏の譜代の家臣まで投降を始める始末でした。

一方尼子方は、宇山久兼は私財をなげうって購入した兵糧を密かに間道から月山富田城に運び入れ、奮闘を続けていましたが、義久は家臣大塚与謝衛門久兼は毛利氏に寝返ろうとしていると讒言し、久兼を死に追いやります。
この事で籠城戦に必死に耐えていた尼子軍は総崩れとなり、混乱に耐えられなくなった尼子氏はとうとう降伏し、月山富田城は落城します(第二次月山富田城の戦い)。
これにより元就は一代にして中国地方8ヶ国を支配する大大名にのし上がります。

元就は尼子氏滅亡後頃から体調を崩し始め、義輝は名医曲直瀬道三を派遣して元就の治療にあたらせます。
治療の効果があったのか、元就の体調は一時期良くなりますが、元亀2年6月14日、吉田郡山城において死去します。
死因は老衰とも食道癌とも言われています。