長篠の戦いが起こるまでの過程はこちら 参照してください。




織田・徳川連合軍は5月18日、信長軍3万・家康軍8千にて長篠城手前設楽原に着陣します。
ここは原とはいえあまり見渡すにはあまりいい所ではありませんでしたが、信長はこの点を利用し3万の軍勢を敵から見えないように途切れ途切れに布陣させ、そこに流れる小川や連吾川を堀に見立てて防御陣の構築に努めます。
信長軍は川を挟む台地の両方の斜面を削り人工的な急斜面を造り、さらに三重の土塁に馬防柵を設け野戦に備えます。


過去の記憶を聞いてみよう
長篠の馬防柵ではありません(関ケ原のものです)がこういうものを信長は作り戦いに備えました。


信長は無防備に近い鉄砲を主力として軍を構成し、武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術を採ります。
一方長篠城を包囲していた武田軍は、信長軍が到着したという知らせを受け、直ちに軍議が行われます。
信玄の代から仕えていた重鎮たち、特に武田四名臣として名高い山県昌景馬場信春内藤昌豊進んで撤退することを進言しますが、勝頼はこの場で信長・家康の首を取ることを決定します(つまりは決戦を行う)。
この勝頼の決断は先の高天神城の戦いによる勝利の自信過剰が含まれていると言われています。
勝頼は長篠城の包囲兵3千を残し、残り1万2千で設楽原に向かいます。
この時、重臣たちは敗戦を予感し、死を覚悟して一同集まり水盃を飲んで決別したと言われています。
武田の動きを見た信長は、

『武田軍に大打撃を与えるチャンスだ。
ことごとく討ち果たせ。』

と各将に伝え、味方から一人も損害も出さないようにしようと作戦を考えていました。




長篠本戦が行われる前日の夜、家康の四天王の一人酒井忠次率いる東三河衆や、織田軍金森長近などの与力、そして鉄砲5百を持たせた計3千と言う部隊が密かに南を流れる豊川を渡り、長篠城付近に留まる武田の長篠包囲軍に対して、翌日夜明けに鳶ヶ巣山砦を後方より強襲します。
鳶ヶ巣山砦は長篠城を包囲・監視するために造られた砦で、武田軍は鳶ヶ巣山砦を本砦とし、さらに4つの支砦を造っていましたが、忠次の奇襲成功により全て落とされます。
武田方の砦がすべて落ちたことにより、鳥居強右衛門との約束長篠城援軍を成し遂げます。
さらに、篠城兵を加えた酒井奇襲部隊は追撃の手を緩めず、有海村駐留中の武田支軍までも掃討したことにより、設楽原へ進軍した武田軍は退路を断たれてしまいます。
この鳶ヶ巣山攻防により、武田方は主将の河窪信実(武田勝頼の叔父)をはじめとして、三枝守友五味貞成和田業繋など名のある武将が討死し、有海村においては武田四名臣の一人高坂昌信の嫡男高坂昌澄が討死しています。
ちなみに、父昌信はこの時対上杉のため、海津城を守備していました。
酒井奇襲隊は一方的な攻撃に終わりましたが、先行深入り過ぎた徳川方の松平伊忠だけは、河窪信実を討ち取りますが、退却する小山田昌行に反撃されて討死しています。
実はこの鳶ヶ巣山奇襲攻撃は信長・家康合同軍議中で忠次が発案しますが、この時は信長に一蹴されています。
ところが、軍議が終わってから信長は密かに忠次を呼び、作戦の決行を命じたと言われています。
それと言うのも、武田軍のスパイを警戒し、軍議の席ではあえて採用しなかったとも言われています。

信長は敵を欺くためによくこのようにしていて、桶狭間の戦い前の軍議も籠城か野戦か決める前に自ら軍議を打ち切り(自らの作戦が今川方にばれない様に)、信長は寝室で床に就いたと言われています。




5月21日早朝、鳶ヶ巣山攻防戦により退路を脅かされることを恐れた武田軍は先に動きます。
土屋昌続らは三重に築かれた馬防柵のうち2段目まで突破し、織田・徳川連合軍に6千名近い犠牲者を出すほど武田軍は善戦しました。
しかし、織田・徳川連合軍は猛反撃を繰り広げ、形成は逆転し、武田軍は総崩れとなり敗走する結果になります。
これにより、武田軍は鳶ヶ巣山の攻防戦を含み1万2千の戦死者を出し、武田軍は大きな被害を被る結果となります。
また、武田軍にとっての痛手がこの戦いで重臣たちを何人も失ってしまった事です。
名だたる武将だけで、武田四名臣の内藤・山県・馬場を始め原昌胤真田信綱真田昌輝土屋昌続などそうそうたる顔触れがこの戦いで討死しました。
真田信綱は、徳川方の渡辺政綱により打ち取られたと言われ、信綱の首を敵の手に渡らないようにするため、家臣の白河兄弟が信綱の着ていた陣羽織で首を包み、甲斐に持ち帰ったと言われ、その陣羽織は『血染めの陣羽織』と呼ばれ、上田市真田町にある信綱寺に収蔵されています。
ちなみに、この血染めの陣羽織はあらかじめ予約をしてからでないと見る事が出来ません(以前はその場で信綱寺に行っても見る事が出来たみたいですが)。
決戦に敗れた勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら、信濃の高遠城に後退します。
そして上杉謙信と和睦し、上杉の抑え部隊として配備していた1万の海津城代高坂昌信と合流し、甲斐に帰国します(この時、昌信は勝頼を敗軍の将と印象付けないように立派な武具に着換えさせたと言われています)。




織田・徳川連合軍の勝因は3千丁の鉄砲と言われ、信長は鉄砲隊を3人1組に分け、鉄砲の弾込めによる時間ロスを減らす『三段撃ち戦法』で武田騎馬隊を破ったというのが有名な通説です。
しかし、3千丁と言う鉄砲と三段撃ち戦法と言うのには史料上の問題が多く、現在では否定する学説が大半です。
これについては後ほど書こうかと思います。



長篠の戦いで勝利した信長は、越前一向一揆平定による石山本願寺との和睦で反信長勢力を屈服させることに成功し、信長は『天下人』として台頭していきます。
そして家康は三河を完全に掌握し、続いて遠江の重要拠点である諏訪原城・二俣城・高天神城の攻略に乗り出していきます。
一方完敗した武田氏は領国の動揺を招いてしまいます。
そのため、自国の敵を減らすため、あらゆるところと同盟を結んでいき、相模後北条の甲相同盟、佐竹氏との甲佐同盟、さらに安房の里見氏ら関東諸族らと外交関係を結んでいき地盤を固めていこうとします。
しかし、後北条氏との関係は後の上杉氏の内乱(御館の乱)により、勝頼と上杉景勝が同盟を結び(甲越同盟)、景勝が上杉氏を継いだため、景勝と敵対した後北条氏と勝頼との同盟は手切れとなってしまいます。
また、畿内を平定し、大勢力となった信長と和睦を結ぶため、人質としていた織田信房を織田家に返還しますが、天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍により武田氏は滅亡します。




長篠城主奥平貞昌長篠城の功績により、信長の偏諱を賜り『奥平信昌』と改名し、家康の長女亀姫を正室として迎え入れ、さらに重臣たちも含め子々孫々に至るまで保証すると言うお墨付きを与えられ、信昌を祖とする奥平松平氏は明治まで繁栄していきます。
また、この戦いの前に武田氏に処刑された鳥居強右衛門後世に忠臣として名を残し、その子孫は奥平松平家家中で厚遇されていきます。