本能寺の変は当時の緒将たちの間でも大きな影響を及ぼしていきます。
本能寺の変については(こちらこちら 参照)



代表的なものを紹介していこうと思います。



明智光秀
光秀は6月5日に安土城に入城し、9日には上洛し朝廷工作を開始します。
途中秀吉の中国大返しの報せを受け山崎に出陣をします。
しかし、思うように兵が集まらず(期待していた細川藤孝や与力の筒井順慶らは不参加に終わったため)、山崎の戦いに秀吉に敗れ、小栗栖にて農民の竹槍にて討死します。
主権を握ってからあまりの速さで討死を遂げた事から『三日天下』と呼ばれています。



羽柴秀吉
秀吉が本能寺の変の凶変を知ったのは翌日6月3日です。
この頃秀吉は毛利氏の支城備中高松城を包囲していて、なかなか落ちる兆しは見られませんでした。
そのため、信長の横死を知られる前に強気に和平を結び、6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には摂津まで戻るという驚異的なスピードを見せます。
ここで秀吉は摂津の有力武将池田恒興中川清秀らを味方を付け、さらに四国討伐軍であった織田信孝丹羽長秀軍を合流し、13日の山崎の戦いで大勝をします。
その後清洲会議柴田勝家と対立をし翌年賤ヶ岳の戦いで破り(こちらこちら 参照)、小牧長久手の戦いこちら 参照)で織田信雄と和睦して信長の跡取りとして力を付けていきます。



柴田勝家
勝家が本能寺の変の凶変を知ったのは秀吉と同じ6月3日です。
この日に上杉氏の城越中魚津城を落とし、急いで戻ろうとしましたが、上杉景勝の反撃や一揆などによりすぐに動くことができませんでした。
ひと段落して京に軍を進めていた際、秀吉が光秀を討ち取ったと知らされます。
そして清洲会議で秀吉と対立し、翌年の賤ヶ岳の戦いにおいて敗北し北ノ庄城にてお市の方と共に自害します。



徳川家康
本能寺の変が起こった時は家康は信長の薦めで堺見物をしていました。
6月2日早朝、家康は返礼のため京へ向かう途中茶屋四郎次郎清延に会い、本能寺の変を知ります。
この際家康はここで死ぬつもりでいましたが、家臣たちの説得により三河に引き返すことを決意し、家康の生涯の危機とも言われた『伊賀越え』を決行します。
この時伊賀出身の服部半蔵正成が活躍をします。
ちなみに家康と別行動をした穴山信君は木津川河畔あたりで落ち武者狩りにより殺されています。
三河に戻った家康は戦支度をして熱田神宮にまで出陣しますが、ここで秀吉が光秀を討ち取ったという知らせを受け引き返します。
武田氏滅亡後の甲斐・信濃は信長の支配下でしたが、信長の死により統治者がいなくなり、相模の後北条氏と争う事になります天正壬午の乱)。
最終的には甲斐・南信濃を統治し、武田氏の領地は家康が引き継ぐ形になります。



織田信雄
本能寺の変を知り、光秀を討とうとしますが、なかなか兵を集める事が出来ず、山崎の戦いで光秀が秀吉に大敗したことを知り、軍を引き揚げます。
清洲会議において織田家の跡継ぎになれなかったどころか推されもしなかったため、これに不服を覚え家康と手を組み、秀吉と相対しますが、結局秀吉と和睦して秀吉に下ります小牧・長久手の戦い)。



織田信孝
6月2日、四国征伐のため大阪に居ましたが、本能寺の変を知り行軍を中止し、丹羽長秀に命じて織田信澄を殺害します。
その後京に向かう秀吉軍と合流します。
信澄の父は信長の弟織田信行で以前信長に謀叛を起こした経緯があったこと(こちら 参照)、また光秀の娘婿であったため、光秀と通じているとみなされ殺害したとされていますが、嫡男織田信忠も横死したため跡継ぎ争いの有力候補になると考え、あらかじめ理由をつけて殺害したとする説もあります。
後の清洲会議で家督を継げなかった信孝は勝家と手を組み、秀吉と戦いますが、敗れて後の自害します。



長宗我部元親
信長の死により、四国征伐が中止となり、元親は静岡の戦いに勝利し阿波・讃岐を完全に支配下に入れます。
その後は秀吉の四国征伐が始まり、最終的には秀吉の軍門に下ることになります。



上杉景勝
本能寺の変後新発田重家への報復を後回しにし、信濃や越中の失地を回復していきます。



九州諸国(大友宗麟島津義久龍造寺隆信
本能寺の変で信長が亡くなったため、信長により結ばれていた豊薩和睦が消滅し、再び争いが起こっていきます。
島津氏と龍造寺氏の沖田畷の戦い隆信他重臣が多数討死し、龍造寺氏は壊滅、島津氏は大友氏の立花道雪が病死したことを知ると総攻撃をかけ、大友氏は滅亡間近までいきますが、秀吉の九州征伐により救われ、島津氏は秀吉の軍門に下ります。



真田昌幸
真田氏は武田氏滅亡後、すぐさま信長の軍門に下りますが、信長の横死により窮地に立たされます。
そのため、弱小大名だった昌幸は北条氏→徳川氏→上杉氏と主君をころころ変えて、自分の領地を守り抜いていき、最終的には長男真田信幸は徳川家康の家臣本多忠勝の娘小松姫と、次男真田信繁は豊臣秀吉の家臣大谷吉継の娘竹林院婚姻関係を結び、両方の家臣となります。




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