前回の本能寺の変に関してはこちら 参照してください。




本能寺の変がなぜ起こったのか。
これにはいろいろ諸説あり、大きく分けると

『光秀単独行動説』

『黒幕説』

があります。




光秀単独行動説を分けるとさらに

『怨恨説』

『野望説』

『悲観説』

『四国政策説』

などがあります。
一つ一つ説明していくと、まず怨恨説は面罵された、領地替えを命じられた等の理由で、光秀が信長に恨みを抱いたとする説です。
先のブログでも紹介しましたが、織田信長はずっと納めてきた坂本並びに丹波を没収され、新しく毛利氏の領地石見と出雲を切り崩して領地にしろと命令しています。
また、それだけではなく、徳川家康を接待する際、最初は接待役として命じられていましたが、突然解除させられてしまいます。
小説などではよく琵琶湖で朝とれた魚が信長のだけウジがわいていた(腐っていた)という理由で、家康や緒将がいるところで一方的に蹴り飛ばすなどをしたと描かれていたりもします。
また、甲州征伐の際に光秀も織田信忠の軍として参加をし、功績を上げるのですが、安土城で信長に報告をした際に、

『光秀がいったい何をした!!!手柄を立てたのは信忠であり貴様ではないだろう』

とこれまた緒将の前で罵倒を受けます。
さらに、丹波攻略の際信長は丹波の波多野氏を滅ぼすよう命じますが、光秀は外交をもって波多野氏を屈服させます。
その際、光秀は自分の母親を波多野氏に人質として送り、波多野秀治が安土城に和睦のあいさつに向かいます。
しかし、安土城で行われた事は…
秀治の処刑でした。
秀治の処刑を知った波多野氏は大激怒し、光秀の母を磔にして殺してしまいます。
そして城兵たちは城外に打って出て、全員が討死をしてしまいます。
母親が磔にされたところは『磔の松』として今でも八上城に残されています。
この出来事が本能寺の一因になったのではないかと言われています。
これらの恨みが積もりに積もり光秀は本能寺の変を起こしたとする説が『怨恨説』です。




次に野望説は光秀自身天下を取るという野望を抱き、主要な武将は地方でそれぞれ大名と交戦していたため身動きが取れず、さらに手薄な畿内で信長がわずか小姓100人ほどと少人数で行軍していたという絶好の機会が到来したため、本能寺に宿泊をした信長を襲撃し、その勢いに乗り天下を手中に収めてしまおうと言う説です。
また、先のブログで載せましたが、光秀が謀叛を起こす前の連歌の席の発句で、『時は今 天が下知る 五月かな』と言うのを紹介しましたが、これが光秀自身天下を取る野望があったのではないかと言われています。
これの意味としては『時』は光秀の旧名『土岐』を表わし、『天が下知る』は『天下を知る(取る)』を表わしています。
これにより、『明智(光秀)は今 天下を取る』となり、野望説の主軸にもなっています。




本能寺の変はこの二つの説が長年の主流とされてきました。
ちなみに悲観説とは、信長は手柄を立てられなかった人物たちを、重臣であれことごとく追放していきました。
代表的な人物としては佐久間信盛林秀貞安藤守就丹羽氏勝等が追放処分を受けます。
これにより、将来の事に不安を感じ、さらには跡継ぎがまだ小さかったため、本能寺の変を起こしたとする説です。
ただ、この説に関しては怨恨説・野望説の背景として用いられ、定説とまでには至りませんでした。




最後に『四国政策説』ですが、現在ではこれが一番有力な説ではないかと言われています。
実は、信長と長宗我部氏は本能寺の変が起こる前は敵対関係を抱いてはいませんでした。
本能寺の変が起こる前には、光秀は家臣斉藤利三と長宗我部氏と婚姻関係を結び、利三と長宗我部元親は親族同士と言う関係でした。
当然光秀も元親には特別な情が生まれます。
また、この事により信長は元親の嫡男に『信』の字を与え長宗我部信親と名乗ります。
そんな中、天正8年(1580年)、信長は元親の四国征服を良しとせず、土佐国と阿波南半国のみの領有を認め臣従するように命じます。
当然元親はこれを拒否をします。
これにより、織田氏と長宗我部氏は対立関係になり、天正9年(1581年)3月には信長の助力を得た三好康長十河存保らの反撃が開始されていきます。
さらに、信長も本格的に四国統一に乗り出していき、天正10年(1582年)5月、織田信孝を総大将とした四国征伐軍が編成されるにまで至ります。
これにより、長年の四国への窓口としていた光秀の立場は一気に無くなり、本能寺の変を起こしたとする説です。
また、ここで注目したいのが、四国征伐軍が渡海する予定だった日が天正10年6月2日、つまり本能寺の変が起こった日でした。
これにより、苦しくも元親は危機を脱する結果となっています。


黒幕説を分けると

『朝廷説』

『足利義昭説』

『羽柴秀吉説』

などがあります。




朝廷説は『三職推任問題』と言うのがあり、これは太政大臣、関白、将軍の三職いずれかに推任するよう信長に聞きます。
実は信長は長篠の戦いの後、幾度か官位を辞退していました。
そのため信長に聞き、その反応を見ようとします。
しかし、信長はすぐにこれに返答をしなかったため、信長は朝廷を滅ぼそうとしているのではないかと思い、信長を殺そうとしたという説です。




足利義昭説は自分を備後国に追放した信長に恨みを抱く義昭が、その権力を奪い返すために旧家臣である光秀に命じたとする説です。
日ごとに勢力拡大していく信長に脅威を抱いていた朝廷は、信長に対し三職推任を出します。
当時まだ征夷大将軍だった義昭は(義昭が征夷大将軍に就任していたのは天正16年(1588年)1月13日まで)、信長が征夷大将軍に就こうとする事を恐れ、信長暗殺を持ちかけたとするものです。
また、三職推任問題の返答は本能寺の変が起こる直前に行われ、信長はその返答をするために京に立ち寄ったのではないかと言う説もあります。




羽柴秀吉説はこの本能寺の変で一番得をしたのは誰かという点で、一番利益を得たものを疑えという推理のセオリーによるものです。
ただ、これに関しては、秀吉の軍師黒田官兵衛が黒幕としていたという説も新しく上がってきています。
それと言うのも、高松城において光秀の間者を捕え、本能寺の変を秀吉は知りますが、その際官兵衛は秀吉に『ご運が巡ってまいりましたな。これであなたの天下です』と秀吉をそそのかしたり、手こずっていた毛利との和睦をわずか1日でまとめあげたり、『中国大返し』の際は官兵衛は先回りし、街道で炊き出しや水の準備をしていたなどでとんとん拍子で秀吉に天下を取らせたとして黒幕説が浮上してきました。
また、官兵衛は有岡城の戦いでは、信長から『官兵衛は裏切った』として嫡男松壽丸(黒田長政)を殺害するように命じられていた事により、官兵衛が信長に対して恨みを抱いていたという説もあります。




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