1582年6月21日(天正10年6月2日)は戦国時代でも最大と言えるクーデターと言われている本能寺の変が起こった日にあたります。




本能寺の変は戦国時代で日本を天下布武にて押し進めてきた織田信長(戦国三傑の一人)が京都の本能寺に宿泊していた際、家臣明智光秀の謀叛により暗殺されたという事件です。
この事件は信長の後継者である織田信忠も同時に暗殺されてしまった事でも有名です。
学校では必ず習う事件の一つですが、今現在でもなぜこの事件が起こったのかと言うのは多くの研究者の研究の対象になっていて、今現在でも定説は存在していません(諸説に関しては後ほど紹介していきます)。




信長は桶狭間の戦いこちらこちら 参照)において戦国の世にデビューしてから敵対する畿内の戦国大名をことごとく滅ぼしていきます。
天正10年(1582年)3月には、戦国時代でも名家として名高かった武田氏が天目山の戦いにおいて滅亡します。
また、関東の後北条氏、東北の伊達氏、九州の大友氏などは信長の勢いに押され、恭順する姿勢を見せ、信長の敵は中国地方の毛利氏、四国の長宗我部氏、北陸の上杉氏、九州の島津氏ぐらいになっていました。
この当時は信長は毛利氏には羽柴秀吉が軍団長として、上杉氏には柴田勝家が軍団長として交戦状態にありました。
また、四国方面では三好康長が信長に下り、そこを足掛かりとして三男織田信孝が重臣丹羽長秀の補佐を受け、着々と長宗我部討伐の準備を進めていました。
九州では大友氏や龍造寺氏がいち早く家督を守るため信長に恭順する意を示したため、島津氏は単独で信長と対抗せざるを得ない状況になっていました。
このため、地方に多くの兵を派遣していた信長はもはや天下は目前とまで言われていましたが、それと同時に信長周囲の軍勢は手薄になり、畿内では信長や徳川家康などは少数で畿内を移動する状況にありました。
この時は家康は信長から安土城に呼ばれ、信長直々にもてなしを受けていたと言われています。
実はこの時、接待役として光秀が指名をされていたのですが、いざござが起こり光秀は接待役を解除され、秀吉救援に向かうよう命じられ(秀吉の下で働けと言う意もあったとも言われています)、さらには信長から長年統治してきた坂本城と丹波亀山城の領地没収を受け、信長より石見・出雲の領地を与えられます。
しかしここで問題なのが、この2領は当時は毛利氏の領地であり、信長の領地ではありませんでした。
これはつまり『光秀の領地は切り崩し(相手から領地を奪い取る)により取得をせよ』と言う事を意味していました。
光秀は中国征伐に向かう前に、出陣の意をこめて愛宕神社において連歌の会を開きます。
この時光秀が詠んだ発句はとても有名で、


『時は今 天(あめ)が下知る 五月(さつき)かな』

と詠んだと言われています。
この発句の意味については後ほど…
秀吉応援軍を整え光秀は丹波亀山城を1万3千の軍勢で出陣をします。
しかし、この時光秀は中国地方とは反対方向に進みます。
これについては雑兵には信長に自分の兵を見せるためと偽ります。
そのため、信長を暗殺する事を知らされたのは重臣斉藤利三等ぐらいしかいませんでした。
一方信長は、秀吉からの毛利討伐の援軍の要請(形だけ)を受け、29日に信長自身も安土城を出発をし、小姓を中心とするわずか100人足らずで向かいます。
同日信長は本能寺に入ります。
それと同時に信忠も妙覚寺に入ります。
6月1日に、信長は本能寺において茶会を開いています。
捕捉までに本能寺は無防備な寺ではなく、天正8年(1580年)2月より、改築作業が行われ、堀や石垣などの防御面も高められていました。
2007年には本能寺跡の発掘調査により、本能寺の変と同時期のものと思われる焼けた瓦や護岸の石垣を施した堀の遺構が見つかっています。




丹波亀山城を出発した光秀は6月2日未明、桂川を渡ったところでついに光秀の心の内を雑兵たちに打ち明けます。

『敵は本能寺にあり』

とても有名な言葉ですが、一説には後世の創作とも言われています。
2日早朝(4時頃とする説もあります)、明智軍は本能寺を包囲し、攻撃を開始します。
物音に気付いた信長は小姓森蘭丸に何事かと伺い、初めは小姓衆たちの喧嘩だと思っていました。
しかし、喧嘩にしては規模が大きく、なかなか収まらなかったため、真相を確かめると本能寺は敵軍に包囲されていることを知ります。
どこから湧いてきた軍なのか見当もつかなかった信長は早急にそれを確認するように命じます。
確認をした結果その軍の紋が水色の桔梗の紋印であることが分かり、この時信長は光秀が攻撃をしてきていることを知ります。
蘭丸は信長に本能寺から逃れる事を薦めますが、光秀が攻撃する前に完全包囲し逃げ場を完全に封鎖していること、また光秀の兵力を知っていた信長は脱出不可能であると悟り、明智軍に対し、


『是非に及ばず』


と言い放ち、自ら弓を持って小姓たちと共に明智軍と戦う事を決意します。
弓の弦が折れてからはすぐさま槍に持ち替え、敵を突き伏せますが、殺到する明智軍により槍傷を受けたため、これ以上の防戦を断念します。
女衆には逃げるよう指示して信長は奥に籠り、さらに蘭丸に火を放たせ自刃したと言われています(小説などではここで敦盛を舞ったと描かれています)。
本能寺の変後信長の遺骨は発見されませんでした。
一方、本能寺から200mほど離れた協会からはフランシスコ・パシオ司祭たちイエズス会宣教師たちが本能寺を見ていて、彼らの情報を得たルイス・フロイス書簡では、

『明智の兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して信長が厠(トイレ)から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。
直後に信長は小姓を呼び、薙刀を振り回しながら明智軍の兵たちに対して応戦したが、鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。
直後に障子の戸を閉めて火を放ち自害した。』

というような内容になっています。




本能寺の事件を知った信忠は、本能寺に救援に向かおうと寺を出ますが、近くに屋敷があった村井貞勝らに出会い、

『既に本能寺は焼け落ち、明智軍はここにも攻めかかってくるでしょうから二条城はここより守りが堅く、立てこもるには都合がいいのでそちらに移りましょう。』

と薦め、信忠は二条城に入城します。
家臣たちは『ひとまず安土に逃げるべき』など意見が飛び交いますが、信忠は

『簡単には逃げる事は出来ないだろうから、雑兵の手にかかっては末代までの恥になるためここで腹を切ろう』

と言い、二条城に籠城することを決意します。
明智軍はすぐさま二条城を包囲します。
もともと二条城に居た誠仁親王信忠と光秀の話し合いの元御所へ脱出させ、二条城で攻防戦が行われます。
この時信忠自身も傷を負いながらも敵を切り倒し、1時間以上戦い続け、三度明智軍を退却させたと言われています。
しかし、兵力の少ない信忠軍は明智軍に二条城内に侵入を許し放火されてしまい、信忠は自刃し、二条城は落城します。
妙覚寺には、信忠と共に信長の弟織田長益こちら 参照)(後の織田有楽斉)も滞在していて、信忠と共に二条城に移り、自刃するよう薦めますが、当の本人は逃亡をし、安土城を経て岐阜へと逃げ出します。
そのため、京の民衆からは


『織田の源五は人ではないよ お腹召させておいて われは安土へ逃げる源五 六月二日に大水出て 織田の源なる名を流す』

と皮肉られています。
簡単に言うと

『五郎(長益)は(信忠に)切腹するように言ったのに、長益は土壇場で安土へ逃れた卑怯者だ。』

と言うような意味になります。

この本能寺の変において討ち死にした人物としては、信長・信忠をはじめ、森蘭丸、村井貞勝、毛利良勝(桶狭間の戦いで今川義元の首を取った人物)、猪子兵助(元斉藤道三の側近)などがいます。




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