1583年6月14日(天正11年4月24日)は戦国一の美女と謳われたお市の方の命日にあたります。
名古屋美人(名古屋嬢)の歴史の美女としても有名です。




お市の方は天文16年(1547年)誕生日不明に織田信長の妹として生まれます。
お市の方は永禄10年(1567年)兄信長の政略結婚のため北近江の浅井長政に嫁ぎ、織田家と浅井家は同盟を結びます。
元亀元年(1570年)、上洛に応じなかった越前の朝倉義景討伐のため、三河の徳川家康と長政に討伐軍に参加するよう命じ、越前討伐に向かいます。
織田軍と徳川軍が越前の玄関口である金ヶ崎城を包囲している時、信長にある贈り物が長政に嫁いだお市の方から届きます。
その贈物とは小豆を入れた袋の両端を紐で結んだものでした。
これはお市の方からの暗号で、とてもではありませんが文書で書けなかったためこのように送っています(ただこれは俗説と言うのが有力です)。
これを見た信長はすぐさま全軍撤退命令を下し、信長は京へ退却を果たします。
ちなみにお市の方が送った暗号の意味は、小豆が織田・徳川連合軍、両端の紐は浅井・朝倉軍を表わし、文字通り『信長は袋のねずみ』と言う意味を表しています。
この退却戦は『金ヶ崎の退き口』または『金ヶ崎崩れ』と呼ばれ、戦国史上有名な信長の撤退戦と言われています。
この撤退は信長の迅速な判断、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の殿軍の活躍などにより、被害を最小限に抑える事が出来ました。
これにより、長政は信長の逆鱗に触れる事になり、姉川の戦いこちら 参照)で甚大な被害を被ることになります。
天正元年(1573年)に小谷城は落城し、夫長政と義父久政は切腹をします(こちら 参照)。
この際お市の方も長政と一緒に切腹をしようとしますが、長政の説得され、藤掛長勝によって3人の娘たちと共に救出され、岐阜に送られます。
ちなみに3人の娘もとても有名な人物で、長女茶々は後の淀君、次女は後の常高院、三女は後に崇源院です。
ただし、長政の長男万福丸(お市の方からすると義理の息子)は捕らわれて10歳で殺されてしまいます(後に美濃関ヶ原で磔(田楽刺し…串刺しの意)と言う説もあります)。




その後は清洲で兄織田信包の庇護を受け、三姉妹と共に9年余り平穏な日々を送ります。
この時のお市の方と三姉妹への待遇はとても厚く、長政の事を気にかけ贅沢をさせたと言われています。
しかし、天正10年(1582年)兄信長は本能寺において明智光秀の謀叛により亡くなります(本能寺の変)。
信長の死後、重臣柴田勝家と再婚をします。
信長の三男織田信孝の仲介によるとされていましたが(清洲会議で秀吉と対立をしたため、自分を推した勝家と親睦を深め立場を固める目的)、近年では羽柴秀吉の仲介を伺わせる書状が見つかり、秀吉の仲介であったとする説が有力になっています。
しかし、翌天正11年(1583年)夫勝家が秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ(その1その2 参照)、越前北ノ庄城で勝家と共に自刃してしまいます。

これによりお市の方は2度の落城を経験します。

ちなみに、長女淀君はさらに大坂の陣で3度の落城(こちら 参照)、次女常高院はさらに関ケ原の戦い時の大津城落城こちら 参照)を経験しています。



よろしければお願いします。


ペタしてね


読者登録してね