前回の桶狭間の議論については尾張侵攻編 参照。


次の議論としては桶狭間の戦いはどこで行われたのかという事です。
桶狭間の戦いなんだから桶狭間に決まっているだろうと言う意見もあるでしょうけど、実際には桶狭間山と言うのもはっきりとはしていません。
『桶狭間』という地名は現在行政的には名古屋市緑区の有松に残されていて、これは江戸時代の桶狭間村を継承したものです。
こちらは東海道から南に少し離れた穏やかな谷間で、ここから当時の街道沿いに西に進むと、合戦の前哨戦の行われた丸根砦、最前線の大高城があります。
また、ここには『桶狭間古戦場公園』と言うところがあり、ここには毛利良勝に打ち取られたとされる今川義元戦死之地という石碑と、この公園の周りには瀬名氏俊が合戦の評議を行ったとされる伝承地『戦評の松』や本陣跡などが残されていたり、また『みやびあけぼの』の前に『おけはざま山今川義元本陣跡』と言う石碑も建てられています。



一方、有松町桶狭間から少し北東に離れたところにある豊明市には、『桶狭間古戦場伝説地』が存在し、こちらは桶狭間の戦いの合戦地として著名です。
ここは今川方の拠点である沓掛城と鳴海城を結ぶ合戦当時の東海道(鎌倉街道)からはやや南に離れてはいますが、鳴海城の方面に通じる谷筋の一角であり、また伝説地の一帯は奇襲に適すると思われる谷あいの地形としては絶好の場所ともいえます。
また、ここには義元の墓が残されていることがかなり古くから知られていて、これは江戸時代の記録にも残されています。
ただ、『桶狭間古戦場公園』と『桶狭間古戦場伝説地』はさほど離れているところではなく、歩いても十分行ける距離にあります。



また、当時織田軍2千と今川軍5千の兵(両軍合わせて7千人)がぶつかったため、この辺一帯が戦場になったとし、両古戦場跡も本物であるとする説もあります。
静岡大学教授で歴史学者の小和田哲夫先生は、『おけはざま山』から沓掛城に逃げた今川軍が討たれたのが豊明市の桶狭間古戦場伝説地で、大高城に逃げた今川軍が討たれたのが名古屋市の桶狭間古戦場公園であり、さらに義元の戦死地に関しては『続明良洪範』という資料に義元は大高城に逃げようとしたとあることから、名古屋市のほうで戦死したのではないかとしている。




次に攻撃方法ですが、定説では奇襲攻撃として迂回をしてわき腹をついたという説で、こちらは

『善照寺砦を出た織田信長は、今川義元の本隊が窪地となっている田楽狭間(または桶狭間)で休息を取っていることを知り、今川義元の首を狙って奇襲作戦を取ることに決した。織田軍は今川軍に気づかれぬよう密かに迂回、豪雨に乗じて接近し、田楽狭間の北の丘の上から今川軍に奇襲をかけ、大混乱となった今川軍を散々に打ち破ってついに義元を戦死させた。』

とするものです。
これに関しては江戸時代初期の『信長記』で取り上げられ、長らく定説とされてきていました。
これに対して、信長軍は迂回をせずに正面から攻撃をしたという説が出てきています。
こちらは

『善照寺砦を出た織田信長は、善照寺砦と丸根、鷲津をつなぐ位置にある鳴海城の南の最前線・中嶋砦に入った。信長はここで桶狭間方面に敵軍が行軍中であることを知り、その方向に進軍、折からの豪雨で視界が効かないうちに田楽坪にいた今川軍に接近し、正面から攻撃をしかけた。今川軍の先鋒は織田軍の予想外の正面突撃に浮き足立ち、混乱が義元の本陣に波及してついに義元は戦死した。』

とするものです。
これに関しては信長に仕えていた太田牛一著の『信長公記』に基づいた説で、現在ではこちらの方が信憑性が高いと考えられているため、迂回して奇襲を仕掛けたという説は否定的に見られています。
もし迂回説を前提としている場合、今川軍が丸根・鷲津両砦の勝利に奢って油断している事が前提になります。
確かに油断していた大軍に決死の寡勢が突入して撃破するという構図は劇的でわかりやすく、また桶狭間の織田方の勝利の要因を説明しやすい説と言える事かもしれません。
しかし、合戦慣れしていた当時の武将である今川義元(ないし家臣たち)が戦場で油断をするというような気の抜けたことをするとは考えられないでしょう。
大久保忠教(大久保彦左衛門)著の『三河物語』では、義元が桶狭間山に向かってくる織田軍を確認しており、北西の方角に守りを固めていたという事も書いてあり、敵を確認していながら油断をして奇襲を受けるとはとても考えにくいでしょう。



また、信長は合戦後の論功行賞で、あまり見られないような事を行っています。
普通でしたら一番の手柄を立てたものは大将首を討ち取った者を勲功第一としますが(この戦いでは毛利良勝)勲功第一になるところですが、実は別の者が第一手柄になっています。
それが今川義元の位置を知らせた簗田政綱が勲功第一になっています。
これは戦争は情報が勝敗の大きなカギとなる事を十分に承知していることを示す逸話としてとても有名で、信長の奇襲成功も情報を十分把握していたためではないかという見解も強いものです。
ただし、簗田政綱の勲功第一と言うのも少しばかり疑問が残ります。
それと言うのも、ただ単に今川義元の居場所を伝えただけで勲功第一と言うのは過賞ではないかと言う事です。
また、政綱が勲功第一になったという記述は史料には存在していないばかりか、敗者である今川家にはその前後の感状が残っていますが、織田家には信長からの感情が存在していません。
政綱の勲功第一と言う表現に近いものとしては『信長記』や『武家事記』に『毛利良勝に勝る殊勲とされた』とし、その報酬として沓掛を拝領したとする部分があり、勲功第一と言うのは桶狭間の戦い後、今川方の城であった沓掛を政綱が拝領したという事実から、後に行われた小説的解釈とされています。




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