前回に関しては桶狭間の戦いその1 参照してください。



過去の記憶を聞いてみよう
織田軍と今川軍の行軍図



正午頃、中島砦の前衛に張り出していた佐々政次千秋四郎ら300余りの部隊が信長出陣の報せを聞き、士気が上がり単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けますが、これは勇み足となり逆に討死をしてしまいます。
今川義元丸根・鷲津両砦陥落、さらに緒戦での勝利にさらに上機嫌になります。
13時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降りだし、織田軍はこれに乗じて釜ヶ谷にまで行軍し、ここに身を潜めます。
14時頃、豪雨が止み織田軍は義元の本隊に奇襲をかけます。
この時、今川軍の総勢は2万を超えていましたが、義元を守る兵力は分散していたため5・6千ほどに過ぎず、双方の戦力にはほぼ差はなく、その結果大将同士が刀槍を振るって乱戦する状態でした。
信長公記』によれば、義元は輿を捨て、騎馬で退却しようとしたが、信長軍に追いつかれ、義元は服部一忠にわき腹を突かれますが、膝を切り反撃をします。
しかし、助太刀に駆け付けた毛利良勝(新助)により首級を取られ義元は討死をします。
この時、良勝は指を噛み千切られたと言われています。
義元討取りの功により、良勝は後に黒母衣衆の一人に抜擢されます。
今川軍大将義元の戦死により今川軍は戦意喪失し、桶狭間の戦いは織田軍大勝利に幕を閉じていきます。




合戦終了後、義元の首は信長の手に渡りますが、鳴海城主岡部元信こちら 参照)は抵抗を続けましたが、義元の首と引き換えに鳴海城を明け渡し、駿府へ退却をしていきます。
また、2年後には信長と元康は同盟を結び(清洲同盟)、この同盟は信長が死ぬまで続き、戦国時代ではまれとも言える長期間の同盟となり、またこの後の歴史に大きな影響を与える同盟ともいえます。



よろしければお願いします。


ペタしてね


読者登録してね