1583年6月11日(天正11年4月21日)は織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が同じく信長の家臣であった柴田勝家を打ち負かした賤ヶ岳の戦いが行われた日にあたります。




説明で『家臣であった』と表記していますが、この頃織田信長はこの時期には存在はしていません。
それと言うのも天正10年6月2日早朝に起こった信長の家臣明智光秀により、京の本能寺においてクーデターを起こされ信長は自刃してしまいます(本能寺の変)。
また、同時に京の二条城に宿泊をしていた信長の嫡男織田信忠も同時に攻められ、信忠も横死してしまいます。
これにより、織田家は当主信長および後継信忠と同時に失ってしまいます。
光秀は11日後の天正10年6月13日、中国地方を攻めていた羽柴秀吉の迅速的な行動により、何の準備もできないまま光秀は山崎の戦いに敗れ、逃走中農民の竹槍に倒れます。
これにより、信長の弔い合戦をしたことにより、旧織田家家臣団の中でも大きな力を得ていくことになります。




6月27日、信長と嫡男信忠が共に亡くなってしまったため、急遽後継を決めることになります。
この話し合いを清洲城で開かれたため清洲会議と呼ばれています。
この清洲会議では柴田勝家は信長の三男織田信孝を推しますが、秀吉はこれに猛反対します。
そして後継にふさわしいのは嫡男信忠の子三法師だと言う事で両者は激しい対立をすることになります。
結果的には後継は同じく信長の旧家臣丹羽長秀池田恒興も三法師を推したため、ひとまず後継は三法師に収まります。
実はこの清洲会議の前に秀吉は長秀と恒興を自分に取り込んで、三法師を推すように頼み込んでいました。
この清洲会議は信長の後継者を決めるとともにもう一つ決めるものがありました。
それは領地分割です。
この時勝家は秀吉の領地である長浜を手に入れますが、もともと長浜は秀吉の領地でしたので、タダでは渡すことはせず、条件として柴田勝豊を城主とすることを条件として長浜をあっさり譲っています。
さらに翌月に秀吉は京で信長の葬儀を大々的に行い、8月には秀吉の一門筋である浅野長政杉原家次京都奉行に置き、世間的にも信長の後継者は自分であるという事をあらわにしていきます。
これについて面白くないのが、信長の後継者になれなかった信孝と勝家で、次第にお互いに敵意を抱いていきます。




もはや両者の争いは明らかになっていったため、お互いに味方を増やすために調略活動を行って行きます。
勝家の後方に領地をもつ上杉景勝や、信孝の領地である美濃の有力武将稲葉一鉄は秀吉側に傾いていたため秀吉は有利に進めていきます。
しかし、勝家は四国の長宗我部元親や紀伊の雑賀衆を味方につけ、秀吉は後方を脅かされる形になります。
ただ、勝家には一つ問題がありました。
それと言うのも勝家が領地としている場所は北陸がほとんどで、冬になると大雪で行軍うまくいかず、何もできなくなってしまいます。
そうなってしまうとせっかく包囲した秀吉軍に、畿内を好き勝手にされてしまい、さらに不利になってしまいます。
そのため、勝家は一旦秀吉と和平交渉を行い、冬が過ぎたら一気に秀吉を叩こうと考え、前田利家金森長近不破勝光秀吉の下に送り和平交渉を進めていきます。
しかし、秀吉は勝家の考えを見抜き、逆に勝家が使者として送ってきた三将を調略し、さらに畿内の武将から人質を入れさせ地盤を固めていきます。




冬に入り、秀吉は行動に出ます。
まずはじめに、もともと自分の領地であった長浜を攻めます。
秀吉が清洲会議で長浜城主を勝豊に指名したのには理由があり、勝豊は勝家の養子でしたが、勝家は同じ養子である柴田勝政を優遇していたためあまりいい待遇を受けていませんでした。
また、従兄であり勝家の家臣佐久間盛政とも仲が悪かったため、秀吉の調略にあっさりのり、城ごと秀吉に寝返り、長浜城は無傷で秀吉の手に戻ってきます。
さらに秀吉は軍を美濃に進め、信孝の岐阜城を降伏させ、三法師を秀吉に渡し、さらに母らを人質として秀吉に送ります。
翌天正11年正月、伊勢を領地としていた滝川一益が勝家側として付き抵抗をしたことから、秀吉は軍を伊勢に向かわせます。
しかし、こちらに関しては激しい抵抗により攻略をするのに時間がかかります。
このような情勢に我慢が出来なくなった勝家は雪解けが終わらない2月末に、残る雪をかき分けながら近江に向けて出陣をしていきます。




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