1615年6月3日(慶長20年5月7日)は大坂夏の陣の戦いの一つで最後の激戦となった天王寺・岡山の戦いのあった日にあたります。

この戦いは幕府軍が最後の抵抗勢力であった豊臣家を潰すために行われた戦いで、この戦いに敗れた豊臣家は滅亡の道をたどることになります。



幕府軍と豊臣軍の両軍配置は以下の通りになります。
過去の記憶を聞いてみよう

wikiより

この戦いでの豊臣軍の作戦として、
敵を四天王寺の狭隘な丘陵地に引きつけ、誘引されてきた敵を順次叩く。

そして引きつけた敵の陣形が伸びきって本陣が手薄になったところで、別働隊の明石全登を迂回して家康本陣を攻撃し、家康を討ち取るというものでした。
またその際大坂城より豊臣秀頼に出馬を願い出て、それにより全軍の士気を高めるというものでした。




戦いは正午頃に始まり、毛利勝永指揮下の与力が先走り、物見に出ていた徳川方本多忠朝隊を銃撃したことにより開始され、またたく間に戦闘は全線におよび、歴史上今までにない兵力と火力により戦場は混乱状態に陥りました。

実際日本の野戦において軍勢が一か所に集まり戦った兵力で、天王寺・岡山の戦いは幕府軍15万、豊臣軍5万合わせて20万人以上が戦ったため、総動員数は関ヶ原の戦い(徳川軍7万4千、石田軍8万2千)を超える戦いとなりました。
先に銃撃を仕掛けた毛利勝永は、先手を打った勢いで幕府軍先鋒大将本多忠朝軍を壊滅させ、大将忠朝を討ち取ります(こちら 参照)。
一番手を突破した毛利勢はそのまま二番手榊原康勝仙石忠政軍へ攻撃を開始し、毛利軍の攻撃に耐えますが、最終的には混乱状態に陥り壊乱、二番手の残兵が雪崩れ込んだ三番手も同様の事態に陥り、家康本陣が丸出し状態にまで追い詰めていきます。



一方茶臼山に陣を敷いていた信繁は前方にいた松平忠直一進一退の激戦を繰り広げていましたが(忠直は前日の家康からの叱責並びに冬の陣での信繁隊での失態により信繁隊に抜け駆け攻撃を行います)、真田軍により『紀州(浅野長晟)が裏切った』と言う虚報により松平勢は浮足立ったのに乗じ信繁隊は敵陣突破をし、毛利隊に苦戦をしていた家康本陣に強行突破を図り、三度家康本陣へ猛突撃を加えます。
家康本陣は新たな敵に対し恐慌状態に陥り、我先にと旗本達は逃げ出す始末でした。
これは三方ヶ原の戦い以来倒れることのなかった家康の馬印を旗本達は踏みつぶしながら逃げ惑い、挙句の果てには守らなければいけない家康を見失うという状態でした(後に旗奉行は詮議され、閉門処分になります)。
また、馬で逃げる家康も切腹を幾度となく口走ったと言われています。
しかし、信繁隊自身大勢の部隊を率いていたわけではないため、次第に付き従う者たちが討死を遂げたりと少なくなり、疲労のため安居天神で休息中に打ち取られてしまいますこちら 参照)
豊臣方で唯一戦線を維持していた勝永隊も真田軍壊滅の後、四方からの集中攻撃にあい、城内に撤退します。
また、別働隊として動いていた明石全登は突撃の命を待つうちに天王寺口での壊滅を知り、忠直勢に突撃し、その後姿を消しています。
討ち死にしたとも戦場から落ちのび、南蛮へ逃れたとも言われていますが、はっきりした記録は残っていません。




一方岡山口の徳川秀忠は、天王寺方面の銃声を聞き、進撃命令を出しますが、軍師参謀の立花宗茂は、進撃せずに後退すべきと建言をしますが、秀忠自身遅参などの汚名があるため、どうしてもこの戦いで手柄を立てたいと考え聞き入れませんでした。
宗茂の予想は的中し、大野勢と前田勢が交戦していましたが、天王寺口の先鋒が毛利勢により壊滅させられたため、二番手の井伊・藤堂勢が支援に向かったことにより、手薄になったところを大野勢が前田勢を突破し、秀忠本陣を急襲します。
家康本陣が信繁軍に強襲を受け混乱をしたのと同様、秀忠本陣も大混乱に陥り、秀忠自身槍を取って駆け込もうとするのをなんとか抑えるほどでした。
これに対し家康の腹心本多正信は『大局的に見れば味方は勝っており、将軍様(秀忠)が自ら手を下す必要はありません。』と諫めます。
秀忠本陣が混乱する中黒田長政加藤嘉明勢が秀忠本陣を固め、立て直すことに成功し反撃に出ます。
体勢を立て直した秀忠本陣の反撃に耐えることが出来なくなった大野治房は敗兵を収容しつつ城内に撤退していきます。




また、本来の作戦に含まれていた秀頼出馬に関しては、淀君の説得に手間取り、説得をしたころには家康・秀忠本陣に突撃していた豊臣軍は壊滅をしていました。
これを知った淀君は、秀頼出馬を即刻中止し戦場で豊臣軍の士気を一切上げることが出来ず、正午より始まった天王寺・岡山の戦いは午後3時には戦線を維持していた勝永隊撤退により、豊臣軍は大敗北をし、午後4時に大坂城は炎上し秀頼・淀君は大坂城内で自刃し、豊臣家は滅亡し大坂夏の陣は終結します。




この戦いでは幕府軍は思いのほか苦戦を強いられ、家康・秀忠は本陣にまで攻め込まれ、さらに幕府軍の一軍の将が討死(本多忠朝等)をするという事態にまで追い込まれています。
これは過去の戦いとして長篠の戦いというのがありますが、この戦いは織田・徳川連合軍は武田騎馬隊に対して馬防柵を長距離に張り巡らし(野戦築城)、敵の攻撃に備えました。
これと同じことを豊臣軍は行い、幕府軍はここに攻撃をするという形になりました。
また、夏の陣は誰の目から見ても豊臣軍敗北は火を見るよりも明らかでした(実際この戦いは豊臣方武将からしてみれば死ぬための戦争と言っても過言ではなかったでしょう)。
そのため、自暴自棄とも言える奮戦振りをし、死を恐れた各兵たちは恐れ逃亡するというずさんなものにもなりました。