有松の桶狭間巡りは有松駅 、桶狭間古戦場公園その1 、桶狭間古戦場公園その2 、桶狭間古戦場公園その3 、桶狭間巡りその1 、桶狭間巡りその2 をご覧ください。
桶狭間古戦場伝説地は国指定史跡として登録されていて、名鉄線中京競馬場前駅徒歩5分ほどのところにあります。
駅構内の通路にこのようなものがあったので撮ってみました。
このお祭りは毎年6月頃に行われているお祭りで、甲冑を着て街を歩いたりするのかな?
行ったことないので詳しくはわかりませんが、お暇があって興味があったら行ってみてはいかがでしょうかね(^^ゞ
街中で仮装パーティーが見れるかもしれませんよ(笑)
ここの目的地である桶狭間古戦場伝説地の入口にある石碑がこちらです。
『ここは永禄3年(1560年)5月19日、今川義元が織田信長に襲われ戦死したと伝えられ、別名『田楽狭間』または『舘狭間』と呼ばれています。
今川義元をはじめ松井宗信などの塚があり、明和8年(1771年)七石表が建てられた。
文化6年(1809年)には桶狭間弔古碑が建立された。
また戦死者を弔って建てられた『おばけ地蔵』、『徳本行者念仏碑』などがある。
昭和12年12月21日 国指定史跡
豊明市教育委員会』
これは今川義元公が桶狭間の戦いの際毛利新助に打ち取られたと言われている場所です。
七石表(一号碑)
『桶狭間の戦いで今川義元の戦死した場所を示す、もっとも古いものである。
明和8年(1771年)、尾張藩士人見弥右衛門桼(あつし)、赤林孫七郎信之によって建てられた。
北面『今川上総介義元戦死所』
東面『桶峡七石表之一』
南面『明和8年12月18日造』
と刻まれている。
豊明市教育委員会』
桶狭間古戦場公園でも今川義元公が打ち取られた場所として紹介しましたが、実は義元公が打ち取られた正確な場所ははっきりしていません。
義元公のお墓は
静岡県静岡市葵区大岩町の臨済寺
東京都杉並区の観泉寺
などにもあります。
文化6年(1809年)5月津島の神官、氷宣豊長が建てたもの、碑の表面は『桶狭間の戦い』を回願する文と往時を偲ぶ詩、裏面には建碑の趣旨が彫られています。
はっきりいって写真では表側も裏側も文字を読み取ることはほとんど不可能で、実際生でみても文字を読み取ることは困難でした。
おまけに古文で書かれているため例え見えても読み解くのはまた困難かもしれません(^^ゞ
こちらが桶狭間古戦場伝説地の向かいにある今川義元仏式の墓碑です。
今川義元仏式の墓碑
『法名を刻んで建立された供養塔である。
今川義元の三百回忌にあたり建てられた。
正面『天澤寺殿四品前礼部侍郎秀峰哲公大居士』
右側面『万延元年庚申五月十九日』
左側面『願主 某』
豊明市教育委員会』
うっすらですが、彫られているのが何となくわかると思います。
こちらはおばけ地蔵とよばれ、幕末期にこのあたりでおばけが出ると噂されていました。
このおばけは桶狭間の戦いの際戦死した人々の霊と言われ、それを供養するために建てられた地蔵で、この地蔵が建てられてからはピタリとおばけが出てこなくなったと言われています。
これは香川景樹が桶狭間にやってきた際読んだとされる一首を石碑に刻んだものです。
『あと問へば 昔のときの こゑたてて
松に答ふる 風のかなしさ
景樹
桂園派の巨匠、香川景樹が己の歌風を江戸にも広めようと意気込んで出府したが、迎えられず、失意を抱いての帰途、桶狭間を通り、永禄3年5月19日、信長のためにこの地に没した義元の気持をくみ、自身の心に引き当てて詠んだ一首で、『尾張名所図会』に載っている。
豊明市教育委員会』
桶狭間古戦場伝説地の隣には高徳寺というお寺があり、ここには当時義元公が本陣を置いたと言われるところに石碑が建てられています。
この階段を登ったところに…
こちら『今川義元公本陣跡』石碑が建っています。
実際ここに本陣を置いていたのかはどうかは定かではありません。
桶狭間巡りはこれで終わりになります。
長くなりました(^^ゞ
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