1581年4月25日(天正9年3月22日)は今川義元の家臣岡部元信の命日にあたります。




元信の祖父岡部親綱義元の家督相続に重大な役割を果たし元信も遠江国と三河国の平定に大きく貢献した武将の一人です。
そのため、元信は義元から尾張国の鳴海城城代を命じられます。
しかし、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いにおいて主君義元が打ち取られてしまいます。
元信は義元が討ち取られても鳴海城で抵抗を続けますが、義元の首と引き換えに鳴海城を開城します。
開城後元信は駿府国に撤退をしますが、手柄なしでは良しとせず刈谷城を攻撃し、水野信近を打ち取り城を焼き払いました。




義元死後今川家に仕えてはいましたが、永禄11年(1568年)、武田信玄の駿河侵攻により、氏真は駿府を追われ、そのまま野に去ってからは武田家に仕え、遠江のなかでも重要な拠点高天神城の城代になります。
ちなみにこの高天神城は、後に武田家と徳川家両家が激しい戦いを繰り広げ、武田勝頼武田信玄ですら落とせなかった城を落とした事から武名を挙げますが、これが後の長篠の戦いの敗因の遠因(自信過剰になってしまい、織田・徳川連合軍を甘く見た)に繋がっていきます。




天正9年(1581年)になると、徳川軍は高天神城に対し本格的な攻撃を行っていき、とうとう元信は高天神城の城兵のみでは持ちこたえることが出来なくなり、勝頼に援軍の要請をします。
しかし、勝頼はこれに援軍を送ることをせず、高天神城は落城(第二次高天神城の戦い)し、元信も敵軍に切り込み、大久保忠教の家臣に打ち取られてしまいます。
勝頼が高天神城に援軍を送らなかったのにはいろいろ説はありますが、援軍を送らず高天神城兵を見殺しにしたことは高天神城兵を失うだけではなく、武田家の威厳を失墜させた原因にも繋がり、以降武田家では家臣のみならず、穴山信君小山田信茂など離反が続出していく結果となっていきます。




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