1612年4月21日(慶長17年3月21日)は本多正純の重臣岡本大八の命日にあたります。
大八は岡本大八事件でも知られています。




岡本大八事件とは、江戸時代初期の慶長14年(1609年)から慶長17年(1612年)にかけて起こった贈賄賂事件です。
事の発端は慶長14年2月、ポルトガル領であったマカオに寄港した有馬晴信の朱印船の水夫が、酒場でポルトガルのマードレ・デ・デウス号船員との口論から始まり、それは次第に乱闘、それにより晴信側の水夫60人が殺害され、さらに船の積荷略奪される事件から始まります。
これを知った晴信は当然大激怒し、すぐさま徳川家康マードレ・デ・デウス号への報復の許可を申請します。
家康はデウス号の事件を放置してしまっては、国家権威が甘く見られると考え、晴信の申請を受理し即座に報復するように命じます。
慶長14年12月12日より、晴信は兵船30艘と1200人の兵を動員し、デウス号を攻撃し、4日4晩の攻撃の末船は炎上します。
この時晴信の報復処置への目付役として同行したのが、家康の側近本多正純の与力岡本大八でした。
この報復処置は大八を通じて正純に伝わり、そして家康へと伝えられ、晴信の功績に家康は激賞します。
晴信はキリシタン大名として有名で、大八も実はキリシタンであった事から二人は意気投合し、二人は酒席を設けます。
その時大八は


『旧有馬領の藤津・杵島・彼杵三郡を家康さまは今回の恩賞として晴信に与えようと考えているらしい。』

と囁きます。
藤津・杵島・彼杵三郡は元は有馬氏の領土でしたが、この当時は鍋島氏の領土となっていました。
晴信からしてみれば旧領の回復は願ってもないことです。
大八の主君正純は家康の側近中の側近だったため、正純が家康に働きかけてくれれば間違いなく旧領を回復することが出来ると考えます。
そして晴信は大八に交渉金として金品を渡すとともに、正純に家康に働きかける運動資金として、大八を通じて金銀を提供します。
しかし、大八は正純に渡すはずだった金銀などを全て自分の懐へ入れてしまいます。
さらに大八は、晴信に『家康の朱印状』を偽造して渡し、その見返りとしてさらに金銀を要求をしてきました。
その結果、晴信は6000両(江戸時代初期の1両は今の10万円ぐらいの価値にあたるので、大体6億円ぐらいの価値)をつぎ込みましたが、大八は一銭も晴信の旧領回復には使いませんでした。
つまり、藤津・杵島・彼杵三郡の旧領回復と言うのは大八の嘘だったわけです。
そうとは知らずにいつまで経っても旧領を与えると言う恩賞の通達が来ない事に業を煮やした晴信は、直接正純に面会し、旧領回復の催促をします。
そんな話は当然受けていない正純はこのふざけた訴えを聞き愕然とします。
話の真相を確かめるため、直ちに大八を呼び寄せますが、大八は『そんな話は知らないよ』とシラを切り続けます。
ここで一つ話がややっこしい事があり、本来なら正純は両者を裁判にかけたいところだったのですが、晴信の嫡男有馬直純は家康の外曾孫国姫(松平信康の孫娘)の婿に当たるため、正純は独断で裁くことが出来ず、家康に事情を話し、裁決を仰ぎます。




正純からこの事件を聞いて家康もびっくりし、事件の調査をさせ、慶長17年2月23日大八を逮捕するに至ります。
大八は家康の朱印状を偽造し、かつ賄賂を受け取っているため、極刑は免れません。
自分だけ処刑されるならと大八は晴信も道ずれにしてやろうと、とんでもないことを言い出します。

『晴信が旧領の回復を策した上に、長崎奉行長谷川藤広暗殺を目論んだ』

と家康に訴えかけます。
つまり、デウス号での恩賞として晴信は大八を通して旧領を回復する事を計画したんだ(酒席での会話は晴信が言ってきたんだ)と言ったのです。
ここで出てきた長谷川藤広は家康お気に入りの側近の一人で、もしこれが本当だとしたら晴信も極刑は免れません。
そんな中正純と大久保長安の立会いの下、慶長17年3月18日大久保長安邸にて大八と晴信の直接対決を命じられます。
実は晴信は失敗を犯していました。
大八の証言である長谷川藤広暗殺について、デウス号撃沈の際藤広も大八と同じく目付として晴信に付き従っていました。
その際晴信は時間をかけて撃沈させようとしていましたが、藤広はこれを手ぬるいと批判します。
これを聞いた晴信は激怒し、怒りのあまりつい『ポルトガル船を撃沈したら、次は藤広を海の藻屑にしてやる』と口走ってしまいます。
これは大八にも聞かれ、この事を藤広暗殺の意思ありと家康に申告したのです。
晴信は怒りのあまり口走ってしまったが、自分は藤広を暗殺する意思は全くないと主張しますが、たび重なる尋問に藤広殺害を企てた事を認めます。




この事件の判決が下り、大八は駿府市中を引き回しの上安倍川の河原にて火あぶりの刑にされます。
一方晴信は藤広暗殺ならびに旧領回復画策を咎められ、甲斐国に流罪に処されます。
これにより晴信の所領島原藩4万石は改易になりますが、晴信の嫡男直純は、父と疎遠だったこと、また家康の外曾孫を娶って家康に近侍していたことにより有馬家の家督相続と所領相続が認められます。
しかし、晴信は後に切腹を命じられますが、キリシタンであるため自害を拒み、家臣に首を切らせて命を落とします。




当時幕府内では大久保忠隣と与力大久保長安を中心とした武断派と、本多正信・正純親子を中心とした文治派に分かれ派閥争いをしていましたが、この事件により、大八の主君正純も裏で手を引いていたのではないかと世間で噂が広がり、正純は次第に孤立を深めていくことになり、これが後に正純が2代将軍徳川秀忠暗殺を画策した『宇都宮城釣天井事件』で改易される遠因に繋がっていきます。




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