過去の毛利元就についてはこちらこちら 参照してください。




天文15年(1546年)、元就は突然隠居を表明し、家督を嫡男毛利隆元に譲ります。
この隠居は実際には完全に隠居したわけではなく、実権はほぼ元就が握っていたため、隆元は隠居についてはあまり反対はしていなかったと言われています。
一方当時吉川家当主であった吉川興経は新参の家臣団を重用していたため、吉川経世ら一族と激しい対立が起こり、家中の統制が出来なくなっていました。
そこで反興経派は元就に、次男元春を吉川氏に養子にしたいと申し出ます。
当時元就は元春には異母弟・北就勝の養子にすることを約束をしていたため断りますが、吉川氏の再三の要求についに元就は折れ、元春を養子に出すことを決めます。
このため、当主だった興経は家臣団によって強制的に隠居させられ、元就により深川に移ります。
しかし、元就は興経派への警戒がまだ強かったため、なかなか吉川家本城に送ることはしませんでした。
これと同時に、第一次月山富田城の戦いにおいて当主小早川正平を失っていた沼田小早川氏の後継問題が起こり、元就はこちらにも介入します。
跡を継いだ小早川繁平幼少かつ盲目である事を利用して、後見役の重臣であった田坂全慶を謀殺し、繁平を出家に追い込み、分家の竹原小早川当主だった元就の3男小早川隆景を後嗣にさせます。
これにより、元就は小早川氏の水軍を手に入れ、『毛利両川体制』が成立し、毛利家の勢力拡大を支えていくことになります。




そんな中毛利家の主である大内家では不穏な動きが強くなります。
それと言うのも第一次月山富田城の戦いにより、大内家当主大内義隆政治に全く関心を示すことがなくなり、大内家は陶隆房を中心とした武断派と相良武任を中心とした文治派に真っ二つに分かれてしまいます。
義隆は戦争に全く興味をなくしてしまったため、当然文治派を重要視していき、連日和歌や連歌会の日々を送り、隆房とは険悪な関係に陥ります。
そしてついに隆房は義隆に対し反旗を翻し、義隆を殺害します(大寧寺の変)。
この事件では元就は隆房と同調して安芸国内の義隆側勢力を攻めて勢力を拡大していきます。
この事件ののち元就は大内家からの独立をうかがっていましたが、天文22年(1553年)、反晴賢(隆房)勢力の吉見正頼晴賢に反乱を起こし、晴賢は吉見討伐のため元就にも出兵を要求します。
一方吉見も元就に援軍を要求したことにより、両者の板挟みになりますが、晴賢が元就の勢力下にあった安芸国人衆にも出兵を要求したため、天文23年(1554年)元就も大内家から離反し晴賢と交戦することになります。
そしてこの戦いが後の日本三大奇襲の一つ『厳島の戦い』へとつながっていきます(こちら 参照)。
厳島の戦いにより陶晴賢を失い、大内家はさらに衰退していき、引冶3年(1557年)ついに元就は大内家の旧領を手中に収めることに成功します。
大内を倒した後はもう一つの宿敵尼子家への攻略に元就は乗り出していくことになります。




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