1497年4月16日(明応6年3月14日)は安芸国の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置いた毛利元就の誕生日にあたります。




元就は『謀神』『謀将』と評価され、暗殺、計略、婚姻などありとあらゆる策を使い勝利を収めたことから『戦国時代最高の謀略家』と評されることもあります。
これは戦国三大奇襲の一つに数えられている厳島合戦こちら 参照)にもおおいに表れています。
しかし、元就が中国地方ほぼ全土を統一するまでには過酷な道がありました。




元就は明応6年(1497年)3月14日に、毛利弘元の次男として生まれます。
明応9年(1500年)に幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父弘元は、嫡男毛利興元に家督を譲り、元就は父と共に多治比猿掛城に移ります。
しかし、翌文亀元年(1501年)に最愛の母が死去、永正3年(1506年)には父弘元が疲労とアルコール中毒により死去してしまいます。
元就は多治比猿掛城に住み続けますが、家臣の井上元盛に所領を横領され、追い出されてしまいます。
この境遇から元就はこの時『乞食若殿』と貶されていたと言われています。
この元就の境地を救ってくれたのが養母である杉大方でした。
元就は後に半生を振り返った際、


『まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた。』

『10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。』


と書き残しています。
しかし、永正13年(1516年)、兄興元が急死してしまいます。
死因はアルコール中毒と言われ、元就は父・兄をアルコール中毒で亡くしたため、酒の席では出席をしても酒には一切手をつけなかったと言われています。
この時家督は興元の嫡男幸松丸が継ぎますが、この時まだ2歳だったため後見役(当主の補佐役)として元就と外祖父高橋久光がつきます。
(当初は久光の方が発言力は強かったですが、久光が三吉氏と戦い戦死してからは元就が実権を握っていきます。)
毛利家当主の相次いでの死により、毛利家中では動揺が起こり、これを機に武田元繁は毛利家の領地を奪おうと侵略を開始します。
この時元就は幸松丸に代わり出陣をし、元就は毛利家の命運をかけた初陣を飾ります。
この戦いは『有田中井手の戦い』と呼ばれ、この戦いで武田氏は衰退していき、毛利家は勢力拡大のきっかけとなっていきます。
この戦いは後に織田信長今川義元の大軍を破った桶狭間の戦いになぞらえて、『西の桶狭間』または『西国の桶狭間』と呼ばれています。
しかし、毛利家と言うのは当主は早死にをするのか、幸松丸も大永3年(1523年)急死してしまいます。
これは鏡山城の戦いの際、当時傘下に入っていた尼子家からの首実験に無理やり立ち合わされ、そのショックにより死去したと言われています。
これにより元就は尼子家当主尼子経久に対し不信感を抱いていくことになります。



幸松丸の後を最終的には元就が継ぐのですが、実はそれまでごたごたがありました。
毛利家当主は他に元就の弟相合元綱坂広秀渡辺勝らが擁立しようと画策します。
そして元綱には尼子家の有力家臣亀井秀綱が後ろ盾をしていて、この家督争いに経久も関わり、元就は元綱を暗殺し、尼子から離反し大内家へ接近を図ります。
この当時の毛利家は国人の域を脱しておらず、東に尼子家、西に大内家と言う大勢力に挟まれていたため、どちらかの傘下に入らなければすぐさま攻撃をされ滅ぼされてしまうぐらいの弱小勢力でした。
元綱事件は後に元就の3兄弟を呼び兄弟の絆を大切にするように伝えた逸話がありますが、それはこの事件(兄弟殺し)を経験したからであると言われています。
元綱の子元範は助けられ、後に敷名家を与えられます。
しかし、この事件はあらぬ方向へと進んでいくことになります。
元綱方についていた坂氏の一族桂広澄はこの事件には直接関係はありませんでしたが、一族の責任を取って勝手に自害してしまいます。
これにより、元就から何かしらの粛清を受けるものと思い、桂元澄を中心に桂城に籠ってしまいます。
予想外のことに驚いた元就はすぐさま家臣の児玉就忠を派遣しますが、説得に応じなかったため、元就は桂城に単身で乗り込み説得し許します。



ちょっと長くなりますので今回はここでいったん打ち切りします。




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