1582年4月3日(天正10年3月11日)は武田勝頼織田信長軍に敗れ自刃した天目山の戦いが起こった日にあたります。




この天目山の戦いは話は少しさかのぼり、元亀4年/天正元年(1573年)西上作戦を決行していた勝頼の父武田信玄は途中三河国にて病気にかかり、甲斐へ引き上げそのままこの世を去ります。
この西上作戦の際、武田家は友好関係にあった織田家と手切れとなり、敵対関係になります。
そして武田家の運命を決める重大な出来事が起こります。
天正3年(1575年)5月21日織田・徳川連合軍VS武田騎馬軍団の戦い(長篠の戦い)です。
この戦いは織田・徳川連合軍が3千丁と言う当時としては膨大な量の鉄砲で武田騎馬軍団を迎え撃ち、武田二十四将の大半を失い大敗北を喫してしまいます。




長篠の戦い後武田家は北条家と同盟を再び結びますが、上杉家で起こった御館の乱により再び敵対関係に陥り、織田家・徳川家・北条家と敵に囲まれてしまいます。
上杉家とは上杉景勝と同盟を結びますが、上杉家は内乱直後のため動くことができませんでした。
織田家は一向宗との戦いや毛利家との戦いの最中だったため、織田家は軍を東に向けることはすぐにはできませんでしたが、家康は武田家に対し攻勢を強めて行き、遠江平定に乗り出し高天神城を包囲します。
この際、勝頼は高天神城に援軍を送らなかった(送れなかった)ため、武田家の信望は急降下していき、とうとう一族までもが織田・徳川に寝返りをする始末にまで陥ります。

本願寺との戦いを収束させた信長はとうとう甲州征伐に乗り出し、嫡男織田信忠総大将に軍を編成され、信濃に攻撃を開始していきます。
この際武田家にとって運が悪いことが起こります。
織田家が甲州征伐を始めた2月14日に浅間山が噴火します。
この当時浅間山の噴火は東国で異変が起こる前兆だと考えられていて、この浅間山噴火のタイミングは朝敵指名・織田軍侵攻と重なったため、武田家は大いに動揺したと考えられています。


過去の記憶を聞いてみよう
現在の浅間山です。



信濃を追われた勝頼は新府城にて真田昌幸の岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)に逃亡するか、小山田信茂の岩殿城(山梨県大月市)に逃亡するか軍議を開きます。
まさに運命の分かれ道。
昌幸は岩櫃城は要害である事を説明し岩櫃城行きを勧めますが、信茂が岩櫃城は遠く雪深いため、武田一族の信茂が支配する岩殿行きを決意します。
移動の際未完成の新府城に火を放ち、岩殿城目指して逃亡します。
しかし、織田家は甲州に侵攻し、そのまま勝頼を追いかけ天目山において滝川一益に捕捉され勝頼は自刃します。
この際武田家家臣土屋昌恒小宮山友晴らが奮戦し、昌恒は峡い崖道で織田勢を迎え撃つため片手をつたに絡ませ崖下へ転落しない様にし、片手で戦い続けたことから『片手千人斬り』の異名をとるほどの活躍をし、討死を遂げています。
これにより450年の歴史を誇る名門甲斐武田家は滅亡しました。




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