日付が変わってしまいましたが、1185年3月22日(元暦2年/寿永4年 2月19日)は治承・寿永の乱の一つ屋島の戦いが起こった日にあたります。




この屋島の戦いはあるものがとても有名で、ほとんどの人が一度は聞いたことがあるものです。
学生の頃の古文で『平家物語』と言うのをやった記憶があると思いますが、この物語の中に『扇の的』と言うのがあります。
この扇の的は日が沈み始めた酉の刻(午後6時ごろ)のお話で、この当時の戦いは日が出始めてから開戦をし、日が沈んだら両軍が引き上げ休むというのが普通でした。
当然屋島の戦いでもこのようなことが行われるのですが、この時平家は源氏に対してある挑戦状を叩きつけてきます。
それが沖に浮かんだ船の上においた扇を弓矢で射ぬけというものでした。
扇は不安定な船の上で上下左右と風や波に任せ留まることがありませんでした。
この平家からの挑戦状受けなければ源氏の名折れ、失敗しても源氏の名折れとなってしまうため、源氏は誰を選ぶのか悩みます。
初めは畠山重忠源義経は命じますが、重忠はこれを辞退、下野国の那須十郎を推挙します。
しかし十郎も傷が癒えずと辞退し、代わりに弟の那須与一を推挙します。
与一はこれを受け、馬の上から弓を引き、扇を狙い『南無八幡大菩薩』と神仏の加護を唱えると、風が一瞬ピタリと止みそれをすかさず与一は鏑矢を放ちます。
鏑矢はきれいな弧を描き見事扇を射抜きます。
射抜かれた扇は天へと舞いあがり、ひらりひらりと海へ落ちます。
両軍は与一のあまりの腕前に歓喜の声を上げます(ここまでは良い話です)。
これを見ていた平家の武士、歳五十ほどの者が黒革おどしの鎧を着て、白柄の長刀を持って扇のあったところで舞い始めます。
義経は与一にあの舞っている武者も射るように命じ、与一は自分のために舞っていた武者を射抜き、武者はそのまま海へまっさかさまに落ちていきます。
これを見て源氏はさらに歓喜の声を上げ、平家は静まり返ります。
与一の行為を見てあるものは『良く射た』というものもあれば『心ないことを』と嘆く者もいました。
これが平家物語に載っている扇の的の大まかな内容です。




この後、与一の行為に激怒した平家は当然源氏に攻撃を仕掛けます。
その時、義経は自らの弓を誤って海に落としてしまいます。
義経は部下が止めるのを聞かず、自ら敵兵の行き交う沖まで行き弓を拾ってきます。
戻ってきた義経は『こんな弱い弓を敵に拾われて、これが源氏の大将の弓かと嘲笑われては末代までの恥辱だ』と語ったというエピソードもあります。
このエピソードが俗に言う『弓流し』です。



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