1494年2月11日(明応3年1月6日)は甲斐国(現山梨県)守護大名武田信虎の誕生日にあたります。

信虎は甲斐源氏の宗家武田氏第18代当主で『甲斐の虎』の異名を持つ武田信玄(晴信)の父です。



当時の守護大名は応仁の乱以降勢力が衰え、下の者が上の者を倒す下克上』にさらされ、ここ甲斐国もその例外ではなく、国内では内乱が絶えず争いが続いていました。
甲斐国では信虎の祖父武田信昌期に跡部氏を服従させ国人勢力を駆逐し、守護権力が回復する一方で河内領主の穴山氏や郡内領主の小山田氏など新勢力が力をつけていきました。
これらの国人たちは隣国駿河国の今川氏や相模の伊勢氏(後北条氏)と手を組み、武田氏と対抗していきます。
また、父武田信縄の代になると信縄と信昌の弟の油川信恵が対立し、武田宗家の内乱も起こり、甲斐一国は乱国状態に陥ります。
武田宗家の内乱は永正2年(1505年)に信昌、同4年(1507年)に信縄が相次いで死去し、信虎は家督を相続します。
その後も武田宗家での内乱は続きますが、永正5年(1508年)10月4日の坊峰合戦において信恵および信恵方の大半が戦死し、信虎による武田宗家の統一が達成されます。
信虎は急速に勢力を拡大していき、甲斐統一を果たして行きます。

永正16年(1519年)、守護所を甲府に移し、後に躑躅ヶ崎館を築き城下町を整備し、そこに家臣たちを住まわせました。



甲斐統一後は信濃の諏訪氏との争いに加え、大永元年(1521年)に今川氏配下の土方城主福島正成(後北条氏配下という説もあります)を主体とする今川勢が甲府に攻め込まれ、信虎は一時甲府館北東の要害山城へ退き、今川勢を飯田河原合戦、上条河原合戦で撃退させます。
この時要害山城では嫡男晴信が生まれ、信虎はこれで軍の士気を上げたと言われています。



その後は後北条と両上杉氏(山内上杉氏、扇谷上杉氏)との争いに介入し、後北条氏と一進一退の攻防を繰り返します。

甲斐国内では度重なる戦により兵たちは疲れの色が現れていたことから、信虎は宿敵である今川氏親と和睦を結びます。
それを聞いた北条氏は(今川氏と同盟していたため)激怒し、今川氏に攻撃を仕掛けます。
これに対し信虎はすぐさま今川に援軍を送ろうとしますが、重臣の一人は『領民は度重なる戦争で疲れきっているためすぐに援軍を送る必要はない』と進言しますが、その重臣は翌日切腹を命じられてしまいます。
これからもわかるように、実は信虎は暴君という名にふさわしいと言っても過言ではないほどの独裁政治を決行していきます。
信虎に意見をして切腹を命じられた者として代表的な人物としては、内藤虎資馬場虎貞山県虎清工藤虎豊などがいます。

ここでお気づきかもしれませんが、この4人にはある共通点があります。

それは、名前に『虎』という字が入っていることです。

この4人は信虎に付き従ってきた譜代衆で、信虎から『虎』の字を貰い受けていたためです。
処刑された4人の家督は、後に武田四名臣として名を上げた内藤昌豊馬場信房山県昌景などが晴信の代で家督復活をすることになります。




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