1543年2月5日(天文12年1月2日)は農民から天下人へと上り詰めた豊臣秀吉の実父木下弥右衛門の命日にあたります。




弥右衛門は尾張国中村(現名古屋市中村区)に生まれ、織田家の足軽もしくは雑兵(雇い兵)であったと言われています。
太閤素生記』には『織田信長の父織田信秀の鉄砲足軽』と記されていますが、これには歴史的重大な矛盾があります。
それというのが鉄砲が日本に初めて種子島に伝わって来たのは天文12年8月25日だからです。




また、名字の『木下』というのも実は疑問視されています。
同じく『太閤素生記』によると、木下弥右衛門と記載され、天文20年(1551年)、秀吉が亡き父弥右衛門の遺産として永楽銭1貫文をもらったと記されています(この遺産を持って秀吉は木綿針を買い、三河国で売って旅をしたとされています)。
1貫文は当時としてはかなりの大金で、当時の遺産分けでは上級農民の間ではよく行われていたため、弥右衛門は土豪だった事を伺えます。
しかし、『木下』という名字が出てくるのは藤吉郎(秀吉)の代になって初めて使われだしたものだというのが明らかになってきています。
そのため、『太閤素生記』は秀吉の事は信用できても弥右衛門のことはあまり信用できません。
これらの矛盾から弥右衛門は下級農民だった可能性が高いことが伺えます。




余談ですが、秀吉が名乗った『木下』という説はいくつかあります。
1つ目は織田信長(もしくは松下加兵衛)と秀吉が初めて会った場所が『大きな木の下』だったため、それを名字とした説。
この説は信ぴょう性が欠けて今ではほとんど否定されています。
2つ目は秀吉の正室おね(後の北政所)の家が木下姓を名乗っていたため、婿養子として秀吉が木下姓を名乗った。
現在では2番目が有力説として考えられています。
ただし、秀吉は天下を統一してから最初名字が無かったことを気にしていたらしく(農民の子では示しがつかないため)、家系を『平氏』として偽っていたとも言われています。



よろしければお願いします。


ペタしてね


読者登録してね