1615年1月18日(慶長19年12月19日)は大坂冬の陣で徳川家と豊臣家の両家で和議が成立し、冬の陣の終結した日に当たります。

大坂冬の陣についてはこちらこちらこちら を参照してください。

大阪冬の陣は徳川家康が江戸幕府の権力を確立させるために起こした戦いですが、家康は大阪城を1回の戦いでは落とすことはしませんでした。
むしろこの戦いは戦争直前に豊臣方は兵糧の買い占めを行い、徳川方は兵糧の調達が困難になり、また戦いは真冬ということで長期戦にもつれ込んだ場合、士気が低下する恐れがあり、真田丸・城南攻城戦が行われてから豊臣方の織田有楽斎を通じて和平交渉を行っていました。
しかし、この交渉は平行線を行き、全く交わることがありませんでした。



そこで家康は豊臣方に対して心理戦を行います。
大砲を用いて大坂城を攻撃したり、昼夜を問わず鬨の声を上げさせ、豊臣方はゆっくり休むことすらできなくし、精神的に追い詰めていく作戦に出ます。
そんな中、両家にとって決定的な出来事が起こります。
徳川方が放った大砲の1つが天守閣に命中し、淀殿の侍女8人が死亡したのです。
大砲の威力に恐れをなした淀殿はそれまでは


『10年でも篭城して戦い続けることができる』


と豪語していましたが、すっかり臆してしまい即刻和議に応じることになります(16日)。
豊臣方は朝廷などを通して家康と和議を申し出しますが、家康はこれを拒否し、豊臣中心ではなく徳川主導で交渉が進められていきます。
その結果両家は19日講和条件が合意し、20日に誓書が交換され和平が成立し、それと同時に徳川方は諸将への砲撃を停止させます。

この時の講和条件は


本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める事(二の丸・三の丸は豊臣方が、外堀は徳川方が埋める)。
淀殿を人質としない代わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。


が提示され、これに対し徳川方は


秀頼の身の安全と本領の安堵
浪人については不問


を約束し、和議が成立します。




しかし、この和議はすぐさま食い違いが起こります。
徳川方は和議が成立した直後、真っ先に外堀の埋め立てに取り掛かります。
その際、藤堂、前田など城南に陣を敷いていた部隊は真っ先に真田丸の埋め立てに取り掛かります。
これらの部隊は真田丸攻防戦において苦汁を飲まされたため、恨みも後押しされ、いの一番に行われます。
他でも徳川方は外堀を着々と埋め立てていきます。
それに対し、豊臣方は家康が寿命で死ぬのを期待し、ダラダラ作業を行っていきます。
が、考えは甘く、作業を終えた徳川方は勢いに任せ二の丸・三の丸の破壊に取り掛かります。
これに対し豊臣方は勝手なことをするなと講義をしますが、徳川方は取り合わず1月23日に完了させ、諸大名は帰国の途に就きます。
その際、門も櫓も徹底的に破壊され、難攻不落の大坂城は丸裸になってしまいます。




実はこの家康が行った行動は豊臣秀吉の作戦だと言われています。
秀吉は生前家康を大坂城に招いた際、秀吉は大阪城の自慢をすると同時に大阪城の落とし方を説明してしまったと言われています。
その落とし方が和睦をして堀を埋めるというやり方です。
家康は秀吉から聞いた大阪城の落とし方をそのまま使い、後の夏の陣で豊臣家は滅んでしまいます。
つまり豊臣家は秀吉自らが滅ぼしたといっても過言ではないかもしれません。



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