今回は前回のブログ(こちら 参照)の続きになります。
そのため、前回と少し内容がかぶりますが、ご了承ください。

1615年1月3日(慶長19年12月4日)は大阪冬の陣で最大の戦いとも言える真田丸・城南攻防戦が行われた日に当たります。
一般的には真田丸の戦いとも言われていますが、実際には戦闘は真田丸だけではなく、大坂城南部に広がる平地全体で行われています。




豊臣軍は先の戦いで木津川口砦鴫野・今福博労淵砦野田・福島と次々と砦を落とされていき、とうとう大坂城に籠城し長期戦へともつれ込もうと考えます(今福の戦いについては引き分けとなりますが)。
そして徳川軍は城を包囲し、徳川家康大坂城南部にある茶臼山へ、徳川秀忠茶臼山より少し東側にある岡山へ布陣します。
また、真田丸正面には前田利常率いる1万2千の兵の他、南部利直松倉重政榊原康勝など数千の兵が対峙、八丁目口・谷町口には井伊直孝率いる4千の兵の他松平忠直率いる1万の兵の他、数千の兵が布陣します。
対する豊臣軍は真田丸には真田幸村(本名信繁)率いる5千、また八丁目口・谷町口には木村重成後藤基次長宗我部盛親など1万2千以上で布陣し、両軍がにらみ合う形になります。

家康は真田丸に対峙する利常に城を勝手に攻撃しないよう命じていました。
しかし、真田丸と前田軍の間には篠山という小高い丘があり、真田軍はそこに少数の兵を布陣させ、鉄砲攻撃を前田軍に行っていました。



12月3日、大坂城内で、南條元忠が徳川軍藤堂高虎調略に乗り、城内で爆発事故を起こし、その隙に総攻撃する手はずとなっていましたが、豊臣軍はこれを察知し元忠を切腹させます。
また、豊臣軍は元忠内通を利用し、バレてはいないよう振る舞います。



翌12月4日、ついに戦いの火蓋が切られます。
前田軍は、篠山からの真田軍の攻撃に悩まされていたため、痺れを切らせこっそり篠山を包囲し一網打尽にしようと考えます。
そして布陣を完了させ夜陰に乗じて篠山に鬨の声を上げながら攻撃を開始しましたが、篠山には真田軍は一人もいませんでした。
実は真田軍は前田軍の動きを知り、山を降りていたのです。
前田軍の鬨の声を聞き、真田丸から声が聞こえてきました。


『篠山で大声を上げているのは前田勢ではござらぬか。
退屈しのぎの追い鳥狩りでもされていたのですかな?
あいにく徳川軍が昼夜を問わず騒いでいるものですからうさぎ一匹いませんぞ。
それほど退屈なのでしたら、この出丸を攻めて慰めにしてはいかがかな?
信州鍛冶の売ったる矢の強さとくとご覧に入れましょうぞ…ハハハ』


長く書きましたが、簡単に言うと


『大軍で攻めてきながら弱いものしか攻撃できない臆病者がここを攻めることはできないだろう。』


という挑発ですね。
こんなことを言われては黙っているわけにもいかず、前田軍は家康の命令を無視し、真田丸へと攻撃を開始します。
真田軍は前田軍を十分に引きつけてから鉄砲の一斉射撃を行い、前田軍は先陣からバタバタと倒れていきました。
また、これを前田軍の抜け駆けと思った直孝、忠直などもこぞって真田丸並びに八丁目口・谷町口へと攻撃を開始しました。
篠山を攻撃した前田軍は真田丸からの鉄砲攻撃で大混乱に陥り、引き返そうとしても後ろから井伊軍や松平軍などが押してくるものですから、前にも後ろにも進むことができず、真田鉄砲隊にことごとく狙い撃ちにされていきます。
この時、真田丸には敵兵が密集していたため、下に向けて打てば必ず当たるという状態で、全く無駄弾出すことがなかったと言われるほどでした。
このような状態になってしまっては流石に引き返すしかなく、全軍に撤退命令を出します。
しかし、徳川軍にとっての転機が訪れます。
大坂城内で火薬庫が大爆発を起こしたのです。

元忠裏切り。

そう思い撤退命令を無視し、さらに大坂城に攻撃を開始します。
しかし、元忠は前日に切腹させられています。
はこの火薬庫爆発は豊臣兵の一人が誤って火種を落としてしまったため、それが火薬に引火し爆発を起こしたのです。
そうとは知らない徳川軍は慌てふためかない豊臣軍にさらに大混乱に陥り、さらに無駄な死者を続出させる結果に終わってしまいます。

この惨状を知った家康はすぐさま撤退命令を出しましたが、真田軍の挑発に乗り、竹束(盾の一種)や鉄楯を持たずに攻めてしまったため、敵の攻撃に身動きが取れず退却は難航し、午後三時を過ぎようやく完了したと言われています。
家康は退却後利常を初め各将を呼び寄せ軽率な行動を叱責し、以後竹束や鉄楯を必ず使用するよう厳命します。


また、この戦いの後家康は幸村の活躍を見て、幸村の叔父真田信尹を使者として送り、10万石の報酬を約束すると出しますが、これを断ります。
これを聞いた家康は今度は信濃一国を報酬として再び使者を差し出しますが、


『十万石では不忠義者にならずとも、一国なら不忠義者になるとお思いか。』


と言ってことごとく内応を断ります。
また、家康の腹心本多正純も使者として送られていますが、使者にすら会わばかったとも言われています。