1615年1月2日及び3日(慶長19年12月3日及び4日)は大坂冬の陣において大坂城包囲戦で最大の戦いとなった真田丸・城南攻防戦が行われた日にあたります。

大阪城は元石山本願寺があった場所で、豊臣秀吉が日本に天下を知らしめるために全国の大名に命じて築城した難攻不落の城と言われているほどで、東は平野川、西は木津川、北は淀川及び島野川が流れる天然の要塞でした。
しかし、天然の要塞と言われた大阪城も1つだけ弱点がありました。
それが城南部です。
大阪城の南側は大きな堀や川がなく、平地が続く場所で、大群を留めるには絶好の場所でした。
当然大阪城攻城軍の徳川家も主力を城南へと集中させて城を包囲しました。




ここで大阪城包囲戦に至るまでの経緯をちょこっとだけまとめておきます。
大坂の役までの流れはこちら を参照してください。
大阪方は木津川口の戦いにおいて、あっさり砦を取られてしまい、その後も両軍は城の外側で戦いが繰り広げられていきます。
慶長19年11月26日には大阪城北東部を流れる大和川付近において幕府軍上杉景勝丹羽長重らは家康の今福村に付け城を築くため、豊臣方井上頼次の守る今福・鴫野の奪取を命じます。
鴫野においては上杉軍の猛攻により守将頼次は討ち死にしましたが、豊臣軍は大野治長ら1万2千で援軍に駆けつけ、反撃に転じます。
上杉軍は一時劣勢に陥りますが、家臣水原親憲の活躍により豊臣軍を撃退しました(鴫野の戦い)。
鴫野占拠後、家康は景勝に堀尾忠晴と交代し兵を休ませるよう命じましたが、景勝は


『弓箭の家に生まれ先陣を争い、今朝より身を粉にして奪い取った持ち口を、上意とは言え他人に任せることはできない』


と言い断固拒否しています。




また、大和川を挟んで対岸に今福というところがありますが、家康はここの奪取を佐竹義宜に命じます。
鴫野奪取と同じ頃佐竹軍は今福を攻撃し、第四柵まで占拠され、守将矢野正倫飯田家貞は討死してしまいます。
その後豊臣軍は援軍に木村重成駆けつけ反撃に転じ佐竹軍は後退し、その後膠着状態が続きます。
そのため、豊臣軍はさらに援軍として後藤基次を向かわせます。
基次は重成の兵を休むよう申請しますが、重成は初陣だったため


『無理をしてでも相手の首を多く取り、後々の戦いを優位に進めたい』


という申し出を受け、基次は援護という形で重成と共に戦い、佐竹軍と戦います。
これにより佐竹軍は先鋒隊が潰走し、劣勢に陥ったため、大和川の対岸にいた上杉軍に援軍の使者を差し向けます。
これを受けた上杉軍は忠晴及び榊原康勝らと共に援軍に向かいます。
重成軍は劣勢になっていた佐竹軍を深追いしすぎたため、軍が横に列を作っていました。
そこを上杉軍の鉄砲隊に横から狙われ、重成軍は撤退を余儀なくされ、決着の優越を付けることなく終わります(今福の戦い)。




徳川家康は1614年12月29日(慶長19年11月29日)には木津川口砦に続き、博労淵砦攻撃に差し掛かりました。
しかし、この砦はあっさりと徳川方の手に渡ってしまうことになってしまいます(博労淵の戦い)。
それというのも、博労淵砦の守備を任されていたのは薄田兼相だったのですが、実は前夜から砦を留守にしていていませんでした。
ではどこに行っていたのかというと、木津川口の戦いでは守将明石全登大阪城に伺候しており不在だったのですが、今回の兼相は遊女屋に泊まり込みで不在でした。
遊女屋と言うのは今で言うところの風俗のようなものです。
この失態により、兼相は味方から『橙武者』を嘲笑われることになります。
橙武者とは『橙は酸味が強く、正月飾りにしか使えない事から、見掛け倒し』を意味します。




また、橙武者と言われた人物はもう一人います。
それが野田・福島において水軍を指揮していた大野治胤です。
博労淵の戦いが行われていた頃と同じ頃、大阪城北西部を流れる中津川と天満川に挟まれた地に野田・福島というところがあります。
この日は前日夜半頃より大雨が降っていました。
治胤はこの大雨の中攻めて来ることはないだろうと油断をしていた最中、九鬼守隆を初めとする幕府軍水軍が攻撃を仕掛けてきました。
大雨の中多勢に恐れをなした守備兵たちは一目散に天満方向へ逃げ出してしまい、あっけなく野田・福島を幕府軍に占拠されてしまいます野田・福嶋の戦い)。
この失態により、治胤も豊臣方の武将から兼相と同様橙武者と嘲笑われることになります。




こうして大坂冬の陣は豊臣方は次々と大阪場周辺の砦を徳川軍に占拠されていくこととなり、豊臣方は完全に籠城策へと移行していきます。



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