1535年12月29日(天文4年12月5日)は三河国で勢力を拡大していた松平清康の命日に当たり、守山(森山とも書きます)崩れが起こった日にあたります。
清康は徳川家康の祖父に当たる人物で、とても勇猛な人物でした。


当時の松平家は東に今川家、西に織田家と大きな勢力に挟まれ、日々両家の三河侵攻が行われていましたが、これを追い出し三河国を統一します。

清康は天文4年12月、尾張国春日井郡森山の陣中において、家臣阿部正豊に突如暗殺されてしまいます。
この事件が起こる少し前、正豊の父阿部定吉織田信秀と内通して謀反を企てているという噂が流れてしまいます。
清康はこれを信じてはいなかったと言われていますが、織田家は松平家より勢力があったため、家臣の多くは定吉に対して疑念を抱いていました。
そのため定義は嫡男正豊に


『もし自分が謀反の濡れ衣で殺されることがあったら、これを殿(清康)に渡して潔白を証明して欲しい』


と清康への誓書を手渡しています。
しかし、守山布陣の翌12月5日、清康の本陣から馬離れの騒ぎが起こってしまいます。
これを見た正豊は、父が清康に誅殺されたと勘違いをし、清康を背後から殺してしまいます。
正豊もその場で殺されてしまいましたが、父定吉は清康の子松平広忠に許されます。
この事件により、広忠は後を継ぐことになりますが、広忠はまだ9歳だったため、家を支えることができず、すぐさま織田家が三河に侵攻してきたため、広忠はこれを抑えられず、また渥美郡の戸田氏・宝飯郡の牧野氏も再び自立傾向を見せ始め、三河の諸豪族も次々と松平家から離れていき、清康の死去大きく衰退していくことになります。
最終的には広忠は後に子の竹千代(後の徳川家康)を今川の人質に送り、家を守って行こうとしていきます。

ちなみに、清康を殺した刀は村正という刀で、この村正は代々徳川(松平)家を呪うことになっていきます。
この刀は広忠暗殺、家康の嫡男信康介錯などに使われ、また、家康自身も指を切ったと言われています。
そのため、江戸時代に入った頃などは村正を帯刀することを禁止したとも言われています。
逆に徳川に恨みを持つ人たちはこの刀を帯刀していたとも言われています(有名な人物としては真田幸村など)。



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