昼に黒田官兵衛の逸話を載せましたので、次は子の長政です。
黒田長政は関ヶ原の戦いで家康から第一の功労者と言われたため、生涯これに誇りを持っていたと言われています。
そのエピソードとして死の床につき家老宛に『徳川が天下を取れたのは、黒田親子の力によるもの』としたためたと言われています。
また、この関が原においても多くの逸話があり、家康は長政の功労に自らその手をとって賞しました。
この事を父官兵衛に話すと、
『それはどっちの手であったか』
と尋ねられたので長政が
『右手でございます』
と答えるとすかさず、
『その時左手は何をしていた?(何故その時左手で家康を刺さなかったのかという意味)』
と設問されたという話が残されています。
ただしこれは後世の創作だと言われています。
関ヶ原の戦い後石田三成は捕らえられ、東軍についた武断派武将(福島正則や細川忠興など)は三成への侮辱の言葉を浴びせていますが、長政は三成の前で馬から降りて敵軍の将として礼節を示しています。
実はこのような行為を行っていたのは長政と藤堂高虎だけだったと言われています。
この時長政は自らの羽織を三成に遣わし、手向けの言葉を送ったと言われています。
また、父官兵衛はかつて小早川隆景に、
『あまりに頭が良く、物事の決断が早すぎるから慎重にしたほうが良い』
と言われた事を長政に対しては
『短気ですぐものを決めたがるから注意しろ』
戒めたと言われています。
長政はその言葉をヒントにして、後年『異見会』というのを設け、家老と下級武士の代表を集め対等な立場で討論の上で決断する仕組みを作ったとされ、この仕組みは幕末まで続いていきました。
また、この異見会では長政は3つのことを掟として守らせたと言われています。
・身分を忘れること。
・どんなことを言い合ってもしこりを残さないこと。
・秘密を守ること。
この3つを会議が始まる前に釈迦の像を掲げ誓わせています。
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