1546年12月22日(天文15年11月29日)は黒田孝高(通称:黒田官兵衛)の誕生日にあたります。
官兵衛は豊臣秀吉の名軍師で『両兵衛』または『二兵衛』と称され、調略や他大名との外交に大いに力を発揮しています。
子には関ヶ原で一番の功労者として名を挙げた黒田長政こちら 参照)がいます。




天文15年11月29日、官兵衛は黒田職隆の嫡男として播磨国(現:兵庫県)の姫路で生まれました。
永禄2年(1559年)、母親を亡くし、官兵衛は文学に没頭していったと言われています。
永禄10年(1567年)、官兵衛は父職隆から家督と家老職を継ぎ、姫路城代となります。
ちょうどその頃近畿地方では織田信長が勢力を拡大していき上洛に成功させます。
赤松政秀は信長に属した池田勝正別所安治宇喜多直家らの支援を受け、姫路城に攻め込みますが、奇襲攻撃などにより政秀撃退に成功します(青山・土器山の戦い)。
天正元年(1573年)には小寺家など播磨の大名たちは浅井長政こちら 参照)などを討ち、将軍足利義昭を追放し近畿を手中に入れた信長と、山陰山陽地方で勢力を誇る毛利輝元の、2大勢力に挟まれ、どちらにつくのか悩まされて行くことになっていきます。
天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて、武田勝頼を破りさらに勢力を拡大していく信長の才能を高く評価した官兵衛は、主君小寺政職に織田家への臣従を勧め、豊臣秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見をします。
また、この際官兵衛は人質として子松寿丸(後の黒田長政)を信長の元へ送ります。
天正5年(1577年)、松永久秀こちら 参照)を討伐したあと、信長は秀吉を播磨に向かわせ、生野銀山を手中にするため竹田城攻めに蜂須賀正勝らと共に加わります。
そんな矢先、東播磨の大勢力である三木城主別所長治が反旗を翻し(三木合戦)、さらに毛利家がこれに呼応し秀吉は孤立状態になってしまいます。
また、織田家の重臣の荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城に篭城してしまうという有様です。
官兵衛は村重を説得するため有岡城に乗り込みますが、逆に捕縛されてしまいます。
そうとは知らず、信長は官兵衛謀反の疑いをかけ、松寿丸を殺すよう秀吉に命じますが、竹中半兵衛こちら 参照)の機転によりかくまいます。
翌年有岡城は落城し、官兵衛は家臣の栗山利安によって救出され、官兵衛は髪や髭が伸びきり、みすぼらしい姿だったと言われています。
また、村重謀反の際主君小寺政職も同調して信長から離反したため、信長の嫡男織田信忠によって討伐され、官兵衛は名字を小寺から黒田を用いるようになったと言われています(もともとこの頃名乗っていた名前は小寺孝隆です)。



その後も毛利家との戦いにおいて参謀として活躍し、因幡国の鳥取城では商人を使い、因幡国の兵糧を通常の2倍の額で買い占め、兵糧攻めで鳥取城を3ヶ月で落城させ、清水宗治が守る備中高松城は水攻めを行い、これを成功させます。
しかし、高松城攻めの最中、信長が死んだという知らせを知り(本能寺の変)、泣きわめき自刃しようとする秀吉を止め、信長の敵を取るよう進言します。
秀吉はまだ信長の死を知らない輝元と和睦して中国大返しを成功させ、山崎の戦いにおいて明智光秀を打ち取り、秀吉は信長の後を継いで行く形になっていきます。
また、この後も各地で策略や功績を挙げていきます。
小田原征伐では北条氏政氏直親子を説得し、無血開城させる功績を挙げ、この時氏直から名刀『日光一文字』などの家宝を与えられています。



関ヶ原の戦いの際には、子の長政を家康本陣に送り、官兵衛は九州において東軍として戦っていきます。
九州での戦いは島津討伐目前で徳川家康と島津義久との和議成立により、停戦命令を受け、軍を退き終戦します。
その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送り、慶長9年3月20日(1604年4月19日)京都伏見藩邸にて静かに息を引き取ります。



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