1594年10月28日(文禄3年9月15日)は徳川十六神将の一人として数えられる大久保忠世の命日にあたります。
忠世は徳川家康の祖父松平清康の代から仕え、大久保家の支流でありながら手柄の大きさは本家をしのぐほどでした。
永禄6年(1563年)の三河一向一揆や元亀3年(1573年)12月の三方ヶ原の戦いに参陣し、武功を挙げました。
特に三方ヶ原の戦いでは、敗戦後に意気消沈する味方を励ますために、天野康景とともに武田の陣のあった犀ケ崖を闇夜の中銃撃して大混乱に陥れ、大将武田信玄


さてさて、勝ちても恐ろしき敵かな』


と賞賛されたと言われています。
これについては弟が著した事で有名な『三河物語』の中に記されているため信憑性には疑問があると言われています。
他にも長篠の戦い第一次上田合戦など多くの合戦に参加しています。




せっかくなので今回は三方ヶ原について書いていこうと思います。
三方ヶ原の戦いは元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康(援軍で織田信長も参戦)との戦いです。
三方ヶ原の戦いは少しさかのぼり、桶狭間の戦いまでさかのぼります。
桶狭間の戦いで信長が駿河の大名今川義元を打ち取り、家康と信長は同盟(清洲同盟)を結びます。
また、信玄は義元が亡くなったことにより海のある駿河に侵略をはじめ、当時結ばれていた甲相駿三国同盟はあえなく破棄されてしまいます。
また、同じ頃信玄と家康は同盟を結び、今川領を攻め込み、武田は東の駿河国を、徳川は西の遠江国を領地化にすることになります。
しかしこの同盟は長くは続かず、すぐに小競り合いが起こります。
また、元亀元年(1571年)室町幕府15代将軍足利義昭こちら 参照)は『御父織田弾正忠(信長)殿』と慕っていた信長と疎遠関係になり、義昭は全国の大名に対し信長討伐を発令し、それに応じる形で信玄は信長と同盟を結んでいた徳川領に元亀2年から、遠江、三河国に大規模な侵攻を行っていきます。
ただし、当時は織田家と武田家は同盟維持をしていたため、信長は徳川に援軍を送ってはいません。
信長は信玄との戦争を極力避けるため、貢物を幾度となく送ったり、妹を信玄の四男諏訪勝頼(後の武田勝頼)に嫁がせたりしています。
また、相模国の北条氏康の死をきっかけに北条家と武田家は和睦し甲相同盟が復活し、元亀3年に西上作戦を開始します。
武田軍は軍を3つに分け、遠江国、三河国、美濃国(甲相同盟後信長との同盟破棄)に同時侵攻を行います。
武田信玄率いる本隊2万2千は甲府を出発し、徳川領遠江を目指します。
途中、山県隊や馬場隊と合流し、武田軍の兵力は約3万にまで膨れ、武田家過去最大の兵力を誇りました。
この侵攻は小さな支城を一つ落とすのに1ヶ月はかかると言われていたものを平均3日で落とすという勢いで次々と落としていきます。
対する徳川の最大動員兵数は1万5千人ほどしか集まらず、また同盟を結んでいた信長も信長包囲網による畿内鎮圧のため援軍をほとんど送ることができない状態でした。
このため、徳川は武田の西上作戦に手も出せず次々を各地で敗戦続きに陥ります。
10月から行われた一言坂・二俣城の戦い(三方ヶ原の戦いの前哨戦)もその一つでこの戦いで武田軍は遠江国の北部を領土化することに成功します。
この戦いでは徳川四天王本多忠勝は目覚しい働きをし、後に


『家康に過ぎたるものが二つあり。
唐の頭(兜)に本田平八』


という本多忠勝の武功を称える狂歌が歌われます。
本田平八は、言うまでもなく本多忠勝のことで、唐の頭はヤクの毛で作られた兜のことで、中国の『唐』原産の日本では珍しい品です。
これを真似た狂歌として


『三成に過ぎたるものが二つあり。
島の左近に佐和山の城』


というのがあります。




少し長くなったのでここで一旦切ります。


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