1600年10月21日(慶長5年9月15日)は東軍徳川家康西軍石田三成を倒し、反徳川勢力を一網打尽に潰し、徳川の天下統一を押し進めた関ヶ原の戦いの起こった日にあたります。

関ヶ原の戦いは少しさかのぼって、慶長5年6月2日の会津討伐にまでさかのぼります。
しかし、実際この会津討伐(三成挙兵の罠とも言われています)事態は戦争は起こってはいません。
会津討伐に向かっている最中三成挙兵により伏見城落城の知らせを受け、家康は途中小山において軍議を開き、三成討伐軍をここに発足させます。
これ以降、関ヶ原本戦まで各地で合戦が起こります。

関ヶ原までの流れは大まかですが、下記を参照してください


・伏見城の戦い(こちら 参照)

・小山軍議(こちら 参照)

・第2次上田合戦(こちら 参照)

・大津城の戦い(こちら 参照)

・杭瀬川の戦い(こちら 参照)


第2次上田合戦では徳川の主力部隊が数日間足止めを食らっていたため、本戦の関ヶ原には間に合いませんでした。




そして迎えた慶長5年9月15日、東軍7万4千(諸説あり)、西軍8万2千(諸説あり)が関ヶ原盆地に集結し、雌雄を決する戦いが始まります。
西軍は午前5時頃に布陣を完了し、東軍は少し遅れて午前6時に布陣を完了したと言われています。

当初の西軍は周りの小高い丘に西軍が陣を敷き、東軍は真ん中の盆地に陣を敷く形になっていました。
明治の世に軍事顧問として来日したドイツのクリメンス・メッケル少佐は関ヶ原における両軍の布陣図を見て、即座に西軍の勝利を断言したと言われています。
関が原は早朝から深い霧が立ち込めていて、隣の軍の様子もわからないほどだったと言われています。
そんな中、家康から先方の約束を取り付けた福島正則は、じっと開戦の火蓋を切るタイミングを図っていました。
濃霧の中両軍は約2時間ほど対峙し続けました。
やがて、霧が少し晴れてきた頃、徳川四天王井伊直政と家康の4男で直政の娘婿松平忠吉が福島隊を横切り、正則の家臣可児吉長が呼び止めると、直政は


『忠吉様は戦争の経験があまりないため、戦争とはどういうものなのかお見せしたい。』


と言って張り出します。
そして、直政の小隊は西軍の主力である宇喜多隊に向けて発砲することにより、宇喜多隊も直ちに応射します。
井伊隊に出し抜かれた福島隊は激怒し、宇喜多隊に突撃を開始したことにより午前8時関ヶ原の戦いの火蓋が切って落とされました。
福島隊・加藤隊・井伊隊・本多隊など多くの東軍部隊が西軍部隊で最強を誇る宇喜多隊に突撃をしましたが、宇喜多隊の猛反撃により相次いで後退を余儀なくされます。
それでも東軍は宇喜多隊に攻撃をしていたため関ヶ原一の激戦区に展開されました。
また、石田隊には黒田隊や細川隊が攻めかかります。

開戦から2時間が過ぎた頃、三成はまだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げます。
同時に島津隊に応援要請の使いも出しました


『使者が下馬しなかったため無礼だ』


と、島津隊もなかなか動こうとしませんでした。
西軍は総兵力のうち、戦闘を行なっているのは3万3千ほどしかいませんでしたが、地形的に有利なため戦況をやや優位に運んでいました。
しかし、戦闘を行っている西軍は自分の持ち場を守るだけで手一杯だったため、お世辞にも連携が取れているとは言えない状況でした。
はこの状況も西軍敗北の原因のひとつと数えられていて、西軍は総兵力では東軍を上回っていましたが、家康との内応などにより参戦をしなかった武将が4万7千ほどいました。
そのため西軍は実質3万ほどで東軍と戦っていることになります。




ちょっと長くなるのでここで一回打ち切ります。

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