1570年10月19日(元亀元年9月20日)は織田家家臣森可成の命日に当たります。



可成は大永3年(1523年)、森可行の子として尾張国葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)に生まれます。
初めは美濃国守護大名土岐家に仕え斎藤道三のお家乗っ取りにより、天文23年(1554年)尾張の織田信長に仕えます。
信長の家督相続と尾張国統一に尽力し、弘治元年(1555年)の清洲城攻めでは織田信友(信長の従兄弟)を討つ功績をあげます。
その後も斎藤家との戦いや信長の弟織田信行家督争いである稲生の戦いにも参戦します。
そして永禄3年(1560年)の今川義元との桶狭間の戦いなどにも参戦します。



信長上洛の際には柴田勝家と共に先鋒を務め、上洛後には近江宇佐山城を与えられます。
元亀元年(1570年)6月に起こった姉川の戦いこちら 参照)にも参戦し、勢いに乗って突撃してきた磯野員昌隊の進撃を阻止するなどの活躍をします。
同年9年宇佐山城を守る可成は浅井・朝倉連合軍進撃の知らせを受けて進軍を妨害するために宇佐山城より出撃して坂本に陣取ります。
9月16日に緒戦において連合軍を撃退することに成功します。
しかし、延暦寺の僧兵も連合軍に加わり、9月20日に連合軍の兵数が膨らみ、一時は連合軍先鋒朝倉景鏡を押し返すなど健闘を見せますが、浅井対馬玄藩の2千に側面を攻撃され、さらに朝倉軍に加え、浅井長政本隊もこれに加わり、信長の弟織田信治、近江の国人青地茂綱と共に討ち死にします(宇佐山城の戦い)。
討ち死にしたとは言え、坂本で数日間浅井・朝倉連合軍の行軍を妨害し、近江に釘付けにした為、連合軍は信長の背後を突くことは出来ませんでした。
また、宇佐山城も家臣の奮戦により落城を免れます。
この宇佐山城の戦いは後に信長の比叡山焼き討ちこちら 参照)を行う理由の一つと言われています。


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