1561年10月18日(永禄4年9月10日)は第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)が起こった日にあたります。
川中島の戦いは全部で5回行われた(1553年~1564年)と言われています。
そして、この戦いではすべて勝敗はついてなく、引き分けに終わったと言われています。
ちなみに第1次・3次・5次は小競り合いや睨み合いで戦いは終わっています。



なぜ川中島の戦いが起こったのかというと、甲斐の守護武田家は勢力拡大のため、武田信玄は信濃へ侵攻していきます。
そして、小笠原家や高遠家などを倒し、北信濃の村上義清が治める砥石城を攻めますが、一方的に信玄は敗北します(これを砥石崩れといいます)。
しかし、翌年真田幸隆はわずかな兵を使い砥石城を落城させ、義清は越後の上杉家に助けを求めます。
当時上杉家当主だった上杉謙信はこの助けを承諾し、ここに武田家と上杉家の戦いが始まっていきます。
天文22年(1553年)、信玄と謙信は初めて川中島で戦いを始めますが、これは小競り合い程度で終わっています。
翌年謙信にとって良くない出来事が起こります。
甲相駿三国同盟が結ばれたのです。
これは甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元がお互い同盟を結び、各々の敵に専念して戦うことができるようになりました。
また、当時は謙信は関東管領上杉憲政を助けるため、関東の氏康とも戦っていたため、共闘状態になってしまいます。
信玄と氏康がこれをフルに使ったのが第4次川中島の戦いです。
謙信は北条討伐のため永禄4年(1561年)小田原を目指し出陣します。
そして、関東の北条方支城を次々と落とし、10万の大軍で小田原城を包囲します(この10万には関東の豪族たちの兵力も含みます)。
そしてこの時謙信は鎌倉の鶴岡八幡宮にて関東管領職に就任します。
謙信が越後を留守にしている間に信玄は武田四天王高坂昌信に命じ、川中島に城を築城(海津城)しました。
この知らせを受け、謙信は越後に引き上げ信玄との戦いの準備をします。


永禄8年8月15日謙信は川中島の妻女山に布陣、信玄は24日に兵2万を率いて茶臼山に布陣しました。
その後信玄は海津城へ入場し、しばらく両者のにらみ合いが続きます。
睨み合いの中先に動き出したのが武田方で、軍師山本勘助の案にて軍を2つに分け、本陣を八幡原に置き、別働隊を夜明けと同時に妻女山へ攻撃をし、主力がいる八幡原へ追い出し挟み撃ちにする作戦を立案します。
この作戦を『啄木鳥戦法』と呼ばれ、キツツキが嘴で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ているためこのように呼ばれています。
信玄はこの案を採用し、9月10日に作戦を決行します。
しかし、この戦法は謙信に読まれ、深夜音を立てずに山を下り、八幡原へ向かいました。
そして、夜明け、武田軍別働隊は妻女山に総攻撃をかけましたが、もぬけの殻状態でした。
一方八幡原では武田軍は作戦を読まれていることに気づいてはいなく、油断をしていました。
霧の中から馬が走る音が聞こえ、武田軍はやっと作戦を読まれていたことに気づきます。
この戦いで武田軍は副将で信玄の弟武田信繁や作戦失敗に責任を感じ命を捧げた天才軍師山本勘助、他にも諸角虎定初鹿野忠次らが討死する状態に陥ります。
また、この乱戦の中、謙信自らが武田軍本陣に乗り込み、信玄を見つけまっすぐ突撃をし、切りつけにかかり、信玄はこれを手にしていた軍配で3度受け止めたと言われています。

ちなみに一騎打ちの銅像は長野市八幡原史跡公園にあります。
その直後別働隊が八幡原に到着し、形勢は逆転し、謙信は撤退していきます。
この戦いで死者は上杉軍3千余、武田軍4千人と言われています。
そして武田軍はこの戦いの戦死者を手厚く葬ったと言われています。



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