1602年10月13日(慶長7年8月28日)は松平広忠の正室で徳川家康の母親於大の方の命日にあたります。

於大の方は尾張国知多郡の豪族水野忠政とその夫人於富の間に緒川城で生まれました。
当時忠政は西の織田家と交友関係を持ちながら東の松平家にも交友関係を持ちかけようと考え、天文10年(1541年)に於大を清康の跡を継いだ松平広忠に嫁がせます。
ちなみに清康は天文4年(1535年)12月5日、尾張に出陣中家臣の阿部正豊に切られ即死します(これを守山崩れと呼んでいます)。
広忠に嫁いだ翌天文11年12月26年(1543年1月31日)、於大は広忠の嫡男竹千代(後の徳川家康)を出産します。


家康誕生には逸話があります。
岡崎城には龍城神社という場所があり、岡崎城築城完成の時、気高い乙女が天守に現れ、


『我はこれ歳久しくこの地に住む龍神なり。
汝、我を鎮守の神と崇め祀らば、永くこの城を守護し、繁栄不易たらしめん。』


すると城内の井戸から龍神が降り注ぎ、龍神は消えてしまったといいます。
以来岡崎城を別名龍ヶ城』、龍神が降りた井戸を『龍の井』と呼ぶようになりました。
そして、家康が生まれた朝に龍神の井より龍神が立ち上っていったと言われています。
現在では岡崎城の名物となっています。



しかし父忠政の死後水野家を継いだ於大の兄信元が天文14年(1544年)に松平家の主君今川家と絶縁して織田家に従ってしまいました。
これにより、織田家についた水野家の娘を置いておくわけにはいかないと考えた広忠は於大と離縁し、水野家に送り返されてしまいました。
その後於大は天文17年(1547年)、信元の意向で久松俊勝に再嫁します。

永禄3年5月19日(1560年6月12日)桶狭間の戦いの後、今川家から独立し織田家と同盟を結んだ家康は俊勝と於大達を迎え入れ、三人の息子に松平姓を与え家臣としました(今川義元が桶狭間で織田信長に打ち取られた知らせを送ったのは信元と言われています)。
俊勝の死後、於大は剃髪して伝通院と号しました。


関ヶ原の戦いの後の慶長7年(1602年)には、高台院(ねね)や後陽成天皇に拝謁し、豊国神社に詣でて徳川家が豊臣家に敵意がないことを示しました。
同年、家康の滞在する現・京都府京都市伏見区の山城伏見城で死去します(享年74年)。
遺骨は江戸小石川の傳通院に埋葬されました。
また、於大の出生地東浦町は於大を記念して緒川の地に『於大公園』を整備し、毎年4月中旬『於大まつり』を催しています。



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