1600年10月13日(慶長5年9月7日)は関ヶ原の戦いの前哨戦として数えられる大津城の戦いが起こった日にあたります。
大津城は現在の滋賀県大津市浜大津周辺一帯にあった平城です。
この戦いの騒音は連日京都にまで届き、市民の中にはお弁当と水筒を持って見物に行くものまで出たと言われています。

話は脱線しましたが、何故この戦いが起こったのかというと、伏見城落城こちら 参照)後にまでさかのぼります。
西軍は伏見城を落とした後、北陸や伊勢方面の平定に乗り出します。
北陸方面の平定には大谷吉継が担当することとなります。
その時、大津城主京極高次という人物もこれに加わっていましたが、高次は吉継が北陸から美濃へと転進する際、いきなり東軍に寝返り、手勢3千人にて大津城に籠城し、守りを固めてしまいました。
この出来事に大阪城の淀君浅井三姉妹の長女秀頼の母親)は驚き、高次の正室浅井三姉妹の次女で後の常高院)に使者を送って停戦・降伏を促しますが、これを拒否します。

これに怒った西軍は報復として毛利元康を大将とし、立花宗茂小早川秀包など九州方面の諸大名の軍勢を中心とした総勢1万5千人で大津城を包囲します。
しかし、高次は城を死守し、容易には落とすことができませんでした。
攻めあぐねた寄せては、13日には大砲を用いて天守などを破壊します。
これにより城内は大混乱になり、それに乗じて立花勢の先鋒大将・立花吉右衛門が一隊を率いて城壁に取り付きました。
籠城軍は奮戦しましたが、ついに力尽き慶長5年9月15日に降伏して大津城を開城します。
高次は一命を助けられ、高野山に上って出家することになります。
なお、高次の正室お初にとって落城の憂き目にあったのは小谷城落城(こちら 参照)、北の庄城落城についで3回目になります。
ちなみに淀君も小谷城落城、北の庄城落城、慶長20年(1615年)5月8日の大阪夏の陣で大坂城(当時の『阪』の字は『坂』を使われていました)落城と3回経験し、この時子秀頼と共に天守閣で自刃します。




この大津城攻防戦は西軍の局地的勝利に終わりますが、大局的には西軍の敗北につながることになります。
大津城開城の9月15日は、関ヶ原の戦いの当日だったためです。
言い換えると西軍は本来あったはずの1万5千の兵力を、大津城に籠城していた3千の兵力にぶつけていた事になり、その分関ヶ原本戦では不利な状況を自ら招いたことになります。
また、九州でその武勇を轟かせていた立花宗茂が関ヶ原本戦に参加していなかったことは家康にとっては幸運なことであり、西軍にとっては不運なことでした。
もし、宗茂率いる1万の軍勢が本戦に参加していたら東西両軍の勝敗は変わっていた可能性があるとする見方さえあるぐらいです。
故に大津城落城は同日の関ヶ原の戦い本戦により、局地的勝利は意味を失くしてしまう結果となってしまいました。
また、家康は敗軍の将である京極高次に対しては、関ヶ原本戦後弟京極高知(関ヶ原で東軍の将として功績を挙げます)を使者に出し大名としての復帰を許しただけではなく、若狭一国9万2千石を与えて功績を報います。
これは宗茂を大津城に引き付けた事を大いに賞賛した結果と言われています。



よろしければお願いします。


ペタしてね


読者登録してね