旧暦ですみません。



天正5年10月10日(1577年11月19日)は戦国時代で北条早雲こちら 参照)・斎藤道三と並び、日本三大梟雄宇喜多直家が入る場合もあります)とも評された松永久秀の命日にあたります。

松永久秀は過去のブログにも幾度か出てきていますのでご存知だと思いますが、主にやってきたのが足利13代将軍義輝暗殺をした永禄の変や、東大寺大仏殿焼失の首謀者としてとても有名です。
ここでは東大寺大仏殿焼失について書いていこうと思います。

久秀は天文9年(1540年)から細川家の被官三好長慶の右筆(書記)として仕えます。
この時期から久秀は長慶の寵臣(大切に扱われた家臣)として数々の手柄を立てます。
永禄7年(1564年)に長慶が死没すると、しばらくは三好三人衆と共に三好義継を担いで三好家を支えていきます。



永禄8年(1565年)、久秀と三好三人衆はいう事を聞かない足利13代将軍義輝を攻め滅ぼし(永禄の変)、さらにキリシタン宣教師を追放します。
この事件の直後、三好家の主導権を巡って仲違いをしていくことになります。
同年11月16日、三人衆は当時松永方の城であった飯盛山城を突如襲って、三好長慶の甥で後継であった三好義継を高屋城に庇護した。
これによって両者の対立が決定的になっていきます。

まず行動をとったのが久秀で、当時対立関係にあったため三人衆と協調していた筒井順慶に矛先を向け、11月18日居城を落城させます。
この後久秀軍は連戦連敗をしていきます。
これに危機感を覚えた久秀は意表をつく作戦に出ます。
5月19日、多聞山城から密かに5千兵を率いて大和を出国し、木津川を下って摂津野田城付近に上陸すると、そこに伊丹城主伊丹親興、山下城主塩川満国、越水城主瓦林三河守らの摂津国人衆の増援軍と合流を果たしました。
それだけに留まらず、さらに野田城より南下して、同盟関係にあった畠山高政に率いられた根来衆等の紀伊勢の支援まで得た上で、5月下旬ごろより6千兵で堺を制圧します。

かつては堺公方を設けていたように、三好家にとって畿内の戦略基盤としていた都市を三人衆から掠め取ることに成功します。
しかし、三人衆も黙って見過ごすことはせず、堺に向け兵を差し向けます。
さらに高屋城にいた三好義継三好康長軍、池田城にいた池田勝正、滝山城を攻撃していた安宅信康軍の一部を加わえ、総勢1万5千兵で堺を包囲しました。
迎え撃つ松永軍は6千兵だったため、劣勢を認めざるを得ず、久秀は自らの敗北を認めるという条件で停戦を結ぶことになります。
劣勢の松永軍に追い討ちをかけるように、大和では6月8日に落城させた筒井城が筒井軍に攻め落とされました。
その後三人衆は畿内を統一していき、新たな征夷大将軍としようと画策する足利義栄を9月23日に越水城へ入城させ、12月7日には普門寺城へ入城させます。



永禄10年4月6日(1567年5月24日)、久秀がいる信貴山城に突如として義継が保護を求めてきました。
何故義継が保護を求めてきたのかは詳しいことは分かってはいませんが、義栄が関係しているのではないかと言われています。
三好家の当主を得ることは三好家で権力を得るための大義名分を与えるだけの効果を保持していただけに、久秀は当時16歳の義継を喜んで受け入れました。

義継が久秀に寝返ったことに激怒した三人衆は大和へ入国し、4月18日に筒井軍と合流し大和の情勢は一気に緊張状態を高めることになります。
そして4月24日の夕刻より戦闘が開始されます。
5月2日、三人衆の一人岩成友通は1万兵で東大寺へ軍を進め布陣します。
これにより多聞山城から東大寺にまで戦火が広がっていくことになりました。
これ以降約半年にわたり、両軍は小競り合いを続け、また近隣の寺を焼き払ったりしていきます。
そして永禄10年(1567年)10月10日午後10時頃、三好三人衆の陣である東大寺の奇襲に成功し、東大寺はほとんどが焼失したと言われています。
また、大仏像にも影響が出て首が落ちたとも言われています。
そして日をまたいだ翌11日午前2時には大仏殿が焼失したと言われています。
これにより三人衆は大和から撤退をしていきます。


しかし、この後も両者の小競り合いは続き、大きく戦況が変化したのが翌永禄11年(1568年)6月29日、信貴山城の戦いで信貴山城は落城し、その後も三人衆は久秀の城を攻撃し始めます。
再び久秀は窮地に陥りますが、ここで久秀に大きな味方が現れます。
それが織田信長です。
信長は9月12日、三人衆についていた六角義賢を撃破し、義輝の弟足利義昭こちら 参照)を15代将軍に擁立して念願の上洛を果たします(足利義栄はこの時には阿波で死去しています)。
すぐに久秀は名器『九十九髪茄子』を信長に献上し、恭順の意を示し軍門に下ることになり、義継には河内上守護に、松永父子には大和を任される事になりました。

しかし、この後第2次信長包囲網に参加し、信長と敵対関係になりますが、信長はこの時は久秀を許しています。
しかし、第3次信長包囲網が組まれると久秀はこれにまた加担をします。
信長は嫡男織田信忠を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み10月に信貴山城を包囲します。
その際久秀が所持していた名器『平蜘蛛茶釜』を差し出せば助命すると言いましたが、久秀はこれを拒否し、久秀討伐軍が信貴山城に総攻撃を仕掛けます。
織田軍の攻撃を抑える事ができないと悟った久秀は、名器平蜘蛛茶釜を天守で叩き割り(一説では茶釜に火薬を仕込んで自爆)、天正5年(1577年)10月10日に爆死します。



墓所は奈良県王寺町の達磨寺や京都府京都市下京区の妙恵会墓地にあります。





お気づきかもしれませんが、久秀はやたらと10という数字に縁があるのかもしれませんね。
東大寺大仏殿が焼き払われた日(10月10日午後10時)からちょうど10年後の10月10日に久秀は爆死しています。
これは偶然なのでしょうか、それとも大仏殿の首を落とした祟りなのか…


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