1597年10月9日(慶長2年8月28日)は室町幕府15代将軍足利義昭の命日にあたります。



義昭は天文6年11月13日(1537年12月15日)、12代将軍足利義晴と近衛尚通の娘・慶寿院との間に生まれ、兄に13代将軍で剣豪将軍と謳われた足利義輝がいます。

永禄8年(1565年)5月の永禄の変で、13代将軍義輝と母慶寿院が松永久三好三人衆に惨殺される事件が起こりました。
この際、義輝の側近だった一色藤長和田惟政細川藤孝こちら 参照)などの助けにより義昭は7月に脱出し、近江の和田惟政を頼って落ち延び、ここに足利将軍家の当主になることを宣言します。
11月21日には矢島に移り、上杉輝虎(後の上杉謙信)らに室町幕府の再興を依頼します。
また輝虎と武田信玄北条氏政の3名に対して3和を命じています。
永禄9年(1566年)9月に越前の朝倉義景を頼り越前へと移ります。
しかし義景はなかなか上洛をせず、業を煮やした義昭は永禄11年(1568年)、朝倉家の重臣であった明智光秀の仲介により、三管領斯波氏の有力家臣であった織田信長を頼ります。
同年9月信長は上洛軍を起こし、無事京に上洛を果たします。
そして10月18日、朝廷から将軍宣下(天皇が征夷大将軍位を与える儀式)を受けて第15代将軍に就任します。
同時に従四位下、参議・左近衛権中将にも昇叙・任官された。
義昭は当初、本圀寺を仮御所としていたが、永禄12年(1569年)1月5日、織田信長の兵が領国の美濃・尾張に帰還するとここぞとばかり三好三人衆の巻き返しに晒され、本圀寺を襲われた(本圀寺の変)。
このときは奉公衆や北近江の浅井長政・摂津の池田勝正・和田惟政らの奮戦によりこれを撃退しています。


義昭も当初は将軍職に就かせてくれた信長を父のようにしたっていましたが(将軍就任直後の10月24日に信長に対して宛てた感状で、『御父織田弾正忠(信長)殿』と宛て名にしているほど)、すぐにふたりの関係に亀裂が走ります。
義昭は幕府再興を念願としていたのに対し、信長は武力による天下統一を狙っていたため将軍職を全く重視していませんでした。
義昭は全国の大名に事あるごとに密書を送っていましたが、信長はこれを気に入らず、義昭に対して殿中御掟を突き付けこれを承認させています。
しかし、永禄13年(1570年)1月23日に出された追加5箇条については義昭はいい気はしませんでした。
その内容は


・大名に書状を出すときは信長に報告し、許可を取るものとする。

・今まで義昭が出した命令はすべて無効とること。

・将軍家に対して忠節を尽くした者に恩賞・褒美をやれないから信長の領地の中から都合を付ける。

・天下の政治は信長に任せ、将軍は意見を述べるな。

・天下が泰平に赴いたからには、宮中に関わる儀式を将軍に行って欲しい。


というものでした。
義昭は追加5箇条に形だけ承認はしましたが、無視をし続けます。
その後義昭は全国の大名に号令をかけ、大名達に信長を打つように呼びかけます。
最初にこれに呼応したのが越前の朝倉義景です。
信長はこれを打つため三河の徳川家康・近江の浅井長政に呼びかけ朝倉討伐に向かいますが、長政の予想外の行動に信長は撤退戦を余儀なくされ、報復戦とし姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破ります(こちら 参照)。
元亀2年(1571年)頃から上杉景虎毛利輝元本願寺顕如武田信玄などに御内書を下し、ここに信長包囲網が完成します。
ただし、これに松永久秀も加わりますが、久秀討伐に義昭の兵も参加しているため、義昭と信長の対立は全面的なものにまではなってはいませんでした。
そして、この包囲網は信玄の死で一気に形成が逆転し、浅井・朝倉家滅亡(浅井家滅亡はこちら 参照、朝倉家滅亡はこちら 参照)、そして義昭を京から追放により信長包囲網はその役割をなさなくなっていきます(ただし、後に3回目の信長包囲網が大々的に組まれます)。

この後中国地方で勢力を拡大していた毛利家を頼り、本能寺の変のあとは豊臣秀吉のもとに付き、山城槇島1万石の大名になります。
また、義昭は天正16年(1588年)、将軍職を辞任します。
この時に室町幕府が滅亡したとする説もあります(こちら 参照)。



墓所は京都府京都市北区等持院にあります。



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