1610年10月6日(慶長15年8月20日)は戦国時代歌人として名を高めた細川幽斎の命日にあたります。
幽斎は俗名で『細川藤孝』としてよく知られている人物です。
ここでは一般的に知られている『藤孝』として書いていくことにしていこうかと思います。



藤孝は足利将軍家連枝(天皇や将軍家など高貴な家柄の兄弟)の三淵家三淵晴員の次男として生まれました。
そして晴員の兄の細川元常の養子となります。
ちなみに藤孝という名前は天文15年(1546年)、将軍足利義藤(後の義輝)から『藤』の字の偏諱を受け、藤孝と名乗ります。

初めは13代将軍足利義輝に仕えますが、永禄8年(1565年)義輝が三好三人衆松永弾正久秀暗殺されると、南近江国の六角家、若狭国の武田家、越前国の朝倉家を頼ります。
しかし、朝倉家もなかなか上洛をしないため、朝倉家に仕えていた明智光秀を通じて織田信長に助力を求めました。

永禄11年(1568年)9月、信長は足利義昭と共に上洛を果たします。
しかし義昭は信長と対立をし、元亀4年(1573年)3月藤孝は軍勢を率いて上洛した信長軍を迎え入れます。
その後義昭を京から追放し、幾度の戦いで信長軍に藤孝は従います。


天正6年(1578年)、信長の薦めで嫡男忠興と光秀の娘玉(後の細川ガラシャ)の婚姻関係を結び、その後は光秀の与力となり、丹後国を攻略し、宮津城を居城とし11万石の大名になります。

天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が起こった後、藤孝は上役であり、親戚であり、親友でもあった明智光秀の再三の要請を全て断り、幽斎玄旨を号して田辺城に隠居し、嫡男忠興に家督を譲ります。
同じく光秀と深い関係にあった大和国の筒井順慶も要請を断り、光秀は兵力を集めることができず、本能寺から11日後の天正10年6月13日山崎の戦い(天王山の戦い)において羽柴秀吉に敗れ、居城坂本城に戻る際落ち武者がりの竹槍に倒れ首級を秀吉の前に差し出されたと言われています。
首実検の後、光秀の首級は京都の栗田口にさらされましたが、首実検の際光秀の首級が暑さで著しく腐敗していたと多くの資料に記されています。



山崎の戦いの後は秀吉に重用され、紀州征伐や九州征伐などに参戦していきます。
また、藤孝は千利休らと共に秀吉側近の文化人として寵遇されます。
嫡男忠興も茶道に造詣が深く、利休の高弟の一人となります。
また、徳川家康とも親交を深め、秀吉の死後家康に接近します。

慶長5年(1600年)、細川家は徳川家康に従い嫡男忠興は会津征伐に大群を率いて赴きます。
そのため、藤孝は500に満たない手勢で田辺城(別名舞鶴城)を守ります。
7月石田三成らが家康討伐の兵を起こし、大阪にあった忠興夫人ガラシャは包囲された屋敷に火を放ち自害します。
また、田辺城にも小野木重勝前田茂勝など1万5千の大群で包囲されますが、攻城軍には藤孝の弟子も多くいたため、戦闘意欲があまりなく、長期戦となります。
一方忠興は関ヶ原の戦いにおいて前線で石田三成軍と戦い、この功績により豊前小倉藩39万9千石の大封を得ます。
そして1610年10月6日京都三条車屋町の自宅で死去します(享年77歳)。



墓所は京都府京都市の南禅寺、熊本県熊本市の立田自然公園などにあります。



細川藤孝の若い(足利義昭と流浪の旅をしていた)頃のお話にこのような事がありました。
当時藤孝は燈籠の油を買うことすらできないほどの貧しい生活を強いられていました。
ふと彷徨っていると、そこに神社があり燈籠の油を盗んだところを神社の神官が気づき咎めました。
その時藤孝は


『自分が学問のために、燈籠の油を盗んだことは神様もよくご存知です。
そして神様は自分は不自由しないから燈籠の油を存分に使えとおっしゃっている。』


と言い訳をしました。
これを聞いた神官は呆れ果てましたが、藤孝の学問熱心さに惹かれ、


『もう盗む必要はないから、いつでも私のところに来なさい。
燈籠の油を分けてあげるから。』


と言い、神官は以後燈籠の油を提供してくれたと言われています。



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