10月3日は語呂合わせで『土(10)佐(3)の日』とされています。
という事で今回はこれに関連して土佐出身の人物を上げてみようかと思います。

土佐出身と言ったらまず出てくるのが坂本龍馬でしょうかね。
坂本龍馬は海援隊を言う株式会社を設立したり(日本初の株式会社)、新婚旅行を初めて行ったことでも有名です。
ただ龍馬はまた書く機会がありますので、今回は保留にしておきます。



今回書こうと思う人物は土佐を統一し、四国の覇者となった長宗我部元親について紹介していこうかと思います。

長宗我部元親は天文8年(1539年)に長宗我部国親の嫡男として岡豊城に生まれます。
しかし、元親は当時としては遅い初陣をし(初陣22歳)、家臣たちからはそれまでは元親のことを『姫若子』と呼んでいました。
永禄3年(1560年)5月28日の長浜の戦い(長浜表の戦い)において初の初陣を飾ります。
しかし、当時の元親は槍の使い方すら知らず、家臣の秦泉寺豊後に槍の使い方を直前まで教わっていたという有様でした。
さすがにこれでは後継としてはとても心配で家臣たちはこの跡継で長宗我部家は終わってしまうんではないかと思われる始末でした。
しかし、いざ合戦が始まると、元親は五十騎を率いて七十余の首をあげ、自らも騎馬武者を二人討ち取るという勇猛果敢な戦いぶりを見せつけました。
さらに元親は勝戦の余勢を駆り、国親らの制止を振り切って本山方の支城・潮江城を無人と踏んで突入し、そのまま城を奪取してしまいました。
開戦前の槍さえ使えない元親とは全く別人のような活躍ぶりに、元親は以後『鬼若子』や『土佐の出来人』と呼ばれるようになりました。
しかし、この翌月父国親が急死してしまい、元親は家督を継ぐことになります。

家督を継いでからはとさ東部の安芸郡を支配する安芸国虎と戦いこれを破り、土佐西部では四万十川の戦いにおいて一乗兼定を破り、ここに土佐統一を果たします。

その後も伊予国、阿波国、讃岐国へ侵攻していきます。
阿波・讃岐は畿内に大勢力を誇っていた三好家がいましたが、永禄11年に織田信長が上洛を果たしたことにより三好家の勢力は衰退をしていました。
しかし、十河存保三好康長ら三好家の生き残りによる抵抗や天正4年の吉良親貞の死などで思うように攻略が進みませんでした。
しかし、天正5年に三好長治が戦死すると三好家は力を落とし、天正8年頃には阿波・讃岐の両国をほぼ制圧します。
また、伊予においては攻撃はしますが、毛利などの援助などによりこちらはあまりはかどらず、伊予平定は長期化することになります。

元親が四国平定に手こずっている時、強敵が元親の領土を睨みつけてきました。
畿内をほぼ制圧をしていた信長です。
天正8年、土佐と阿波南半分のみの領地を認めるから臣従するように迫ります。
それに対して元親はこれを拒否します。
このためふたりの関係は悪化し、翌年3月信長の助力を借り、康長・存保らの反撃を受けます。
また、存保は中国で毛利氏と交戦している羽柴秀吉に通じて元親に圧迫を加えました。
そして天正10年5月、神戸信孝(織田信孝)を総大将とした四国攻撃軍が編成され、危機的状況に元親は陥ります。
攻撃侵攻軍は6月2日に渡海の予定でしたが、同日早朝大事件が起こります。
何度もブログで出してはいますが、本能寺の変です。
これにより、信孝軍は解体され撤退したので、元親は危機を脱します。
実はこの本能寺の変、元親が絡んでいたという説もあります。
明智光秀の家臣斎藤利三の妹が元親の正室だったため、妹の危機を救うために光秀に直訴し、本能寺の変が起こったというものです。
四国攻撃侵攻軍の派遣も同日だったのでなきにしもあらずと言ったところでしょうね。


信長の後に敵対をしたのが山崎の戦いで勢力を拡大した秀吉です。
元親は最初柴田勝家と同盟を結び秀吉と対立しますが、勝家が賤ヶ岳の戦いにおいて敗れ北の庄城において自刃してしまいます。
その後も元親は小牧・長久手の戦いにおいても織田信雄徳川家康と結んで秀吉に対抗します。
そして天正13年12月伊予の守護河野家は元親に降伏をし、伊予を落とし四国統一をします。
ただし、この統一には異説もあり、実際は統一されていないとする説もあります。

小牧・長久手の戦いが終わり、秀吉による四国攻撃が本格的に始まり最終的には阿波・讃岐・伊予を没収され、土佐一国のみ安堵され秀吉に降伏します。


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