1628年10月2日(寛永5年9月5日)は三河武士の鑑と称された鳥居元忠こちら 参照)の次男鳥居忠政の命日にあたります。

天正12年(1584年)徳川家康に従い小牧・長久手の戦いに参加します。
関ヶ原・大坂の陣ではともに江戸城の留守居役を務めます。
元和8年(1622年)出羽山形22万石に加増移封され、徳川家の譜代大名として伊達政宗などの東北諸大名の監視を命じられます。
寛永5年9月5日、山形にて死去し、跡を嫡男忠恒が継ぎます(享年63年)
墓所は東京都文京区江岸寺にあります。


忠政はそんなに合戦とかでは活躍をしていないので小牧・長久手の戦いにスポットを当ててみようかと思います。

1582年7月1日(現在のグレゴリオ暦)(天正10年6月2日)に起こった本能寺の変により織田信長が自刃し、織田信孝は父信長の弔い合戦として兵を集めようとしますが、なかなか集まりませんでした。
そんな中怒涛の勢いで信長の弔い合戦を達成させてしまった人物がいます。
羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)です。
秀吉は山崎の戦いにて明智光秀を打ち取り、織田家で力をつけていきます。
ここで問題になってくるのが『誰が信長の跡を継ぐか』です。
信長の嫡男織田信忠本能寺のあった日に二条城にて自刃してしまい、ここで当主、跡取りが同時にいなくなってしまいました。
そのため開かれたのが清洲会議と呼ばれる一門・重臣たちの後継並びに領地分配会議です。
この時会議の中心をしていたのが織田家家臣団筆頭柴田勝家です。
勝家は後継は信孝がふさわしいと言いますが、これに真っ向から反抗したのが光秀を討ち取った秀吉です。


『信孝と信雄は同い年のため(正確には信雄は次男、信孝は三男)、どちらかをつけたら争いは避けられない。
また、三男が次男を差し置いて後継になるのは道理に反する。』


と反対します。
そこで秀吉が推したのが誰かというと信長の嫡男信忠の嫡男(信長の嫡孫)三法師(後の織田秀信)です。
この時わずか3歳。
勝家は3歳の子供が政治をすることができるはずがないと言いましたが、秀吉は丹羽長秀池田恒興など味方に付け、後継は三法師に決まりました。
この頃から秀吉と勝家の関係に亀裂が入ったのか確定的で、勝家はこの直後信長の妹お市の方と再婚し、信孝との関係を堅固なものにし、秀吉対策をします。
しかし、翌天正11年(1583年)信孝と勝家はそれぞれ岐阜城、北の庄城にて自刃します。
これにより、秀吉は織田家をほぼ手中に収めてしまいます。
ここで面白くないのが信雄です。
信雄には秀吉と戦争をする兵力はありません。
そのため秀吉と対等な力を持っているものの力を借りなければなりませんでした。
そこで候補に挙がったのが、三河の徳川家康です。
家康は父信長の盟友、そして自分はその子供と言うことで家康は協力をしてもらえるだろうという思惑がありました。
家康はこれに応じ、ついに秀吉は織田・徳川連合軍とぶつかる事になります。
ついに小牧・長久手の戦いの開幕を迎えます。


前半は小牧山周辺にて戦いが起こります。
3月13日、家康が清洲城に入城したその日、信雄に予期せぬ事態が起きます。
織田家譜代の家臣池田恒興が秀吉につき、そのまま犬山城を占拠してしまいました。
家康はすぐさま15日に小牧山城に駆けつけます。
同時に羽柴軍の森長可も小牧山城を狙います。
翌16日長可は小牧山攻めの承認を受け、夜半に羽黒に布陣をしますが、この動きは徳川軍に知れることになり、酒井忠次榊原康政らに翌朝奇襲をかけられ長可は総崩れになり潰走しました(羽黒の戦いまたは八幡林の戦い)。

初戦に大敗を喫した秀吉は打開策として羽柴秀次を総大将にし、池田恒興や森長可らを付け三河の岡崎城に奇襲をかける作戦を立てました。
この作戦は恒興の献策が通説とされていますが、長久手の戦いの直前に秀吉が長秀に宛てた書状などから、秀吉の策である可能性が高いと言われています。
しかし、この作戦も家康に先読みされて、羽柴軍は徳川軍に背後を突かれる形になってしまいます。
兵力的にはそれぞれ約9千ずつと互角でしたが、羽柴軍には背後を突かれたということの他にもう1つ悪条件が重なります。
徳川軍は山に陣取り、斜面に鉄砲隊を3段に構え万全の布陣をしますが、対する羽柴軍は不意を突かれた上に機動力が奪われる湿地帯の長久手の地での布陣を余儀なくされ、徳川軍が有利な方向に進んで行きました。
そして4月9日午前10時頃激突をし、両軍入り乱れる死闘は2時間ほど続き、森長可が徳川軍の鉄砲隊の弾丸が眉間に受け、討ち死にした頃から一気に徳川優勢と傾きました。
その後池田恒興も永井直勝の槍に討ち死にをし、羽柴軍は数々の武将が打たれ総崩れとなり撤退し、徳川軍の大勝利に幕を閉じます。

後にも戦いは続きますが、戦いに勝てないと考えた秀吉は家康と和睦を結ぶことを考えます。
そこで秀吉が目をつけたのが信雄でした。
信雄と講和を結ぶことにより家康は戦争の大義名分を失い、11月21日に兵を引きます。
そして、家康は秀吉との講和とし、次男於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子にすることで小牧・長久手の戦いは集結します。

小牧・長久手の戦いは戦争面では徳川軍の圧勝に終わりますが、政治面では秀吉の勝利となるでしょう。


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