1333年9月25日(正慶2年/元弘3年8月16日)は鎌倉幕府最後の将軍守邦親王の命日にあたります。


おやおやちょっと変なところがありますね。
正慶2年/元弘3年…
なぜ元号が2つもあるのか…
元号は普通は1つですよね。
しかし、この時代南北朝時代と言われ、日本は大覚寺統の天皇(南朝)持明院統の天皇(北朝)に分かれます。
そのため、それぞれの天皇が元号を作り、このように2つの元号が誕生してしまいました。
ちなみに正慶と言うのは持明院統の天皇(北朝)が使用しました。
そして鎌倉幕府が滅亡するとともに『正慶』という元号は使われなくなります。
その後建武という元号を使うことになります(建武の新政が元号名で有名ですかね)が、この後また2つに元号が分かれます。
あまりこの辺については詳しくもなんともないのでちょっとわかりにくいですがすみません。


話を戻します。
守邦親王は8代将軍久明親王と、7代将軍惟康親王の娘の間の子として生れるます。
そして延慶元年(1308年)8月、業績を上げることができなかった父久明親王は北条氏によって将軍職を解任され、京に送還され出家しました。
そのため後を継いだ守邦親王はわずか8歳で征夷大将軍に就任しました。
しかし、当時の幕府の実権は北条氏が握っており、将軍は名目的(飾り)に過ぎませんでした。
そして元弘3年(1333年)、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕運動が起きると、鎌倉は足利義詮新田義貞らの攻撃により陥落してしまいます。
これにより鎌倉幕府は滅亡しました(こちら 参照)。

その後守邦親王は将軍職を辞職し出家をします。
そして鎌倉で薨去しました。


ちなみに守邦親王は鎌倉幕府征夷大将軍就任期間が実は一番長いんですよ。
参考までに鎌倉幕府の征夷大将軍と就任期間を並べてみます。


初代源頼朝  (1192-1199)の 7年(1194年辞任という説もあります。)
2代源頼家  (1202-1203)の 1年
3代源実朝  (1203-1209)の 6年
4代藤原頼経(1226-1244)の18年
5代藤原頼嗣(1244-1252)の 8年
6代宗尊親王(1252-1266)の14年
7代惟康親王(1266-1289)の23年(元寇はここで起こります。)
8代久明親王(1289-1308)の19年
9代守邦親王(1308-1333)の25年


こんな感じです。


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