1573年9月16日(天正元年8月20日)は織田信長が朝倉家居城一乗谷城を落とし、朝倉氏が滅んだ日にあたります。

上洛しなかった義景討伐を盟友徳川家康、義兄弟の浅井長政に命じ越前国に侵攻しましたが、ここで信長にとって予期せぬ出来事が起こります。
浅井長政が朝倉義景についてしまったのです。
信長は命からがら山城国に逃れ、後日朝倉・浅井連合軍を織田・徳川連合軍が破ります(姉川の戦い 参照)。


そして1573年(天正元年)信長は浅井氏の居城小谷城を包囲します。
これに対して朝倉氏は2万の軍勢で援軍を送りますが、近江一帯に暴風雨が襲いました。
これにより信長は援軍に来ていた朝倉氏への強襲を決行し、暴風雨で油断していた朝倉軍はなすすべなく降伏し、本陣も越前へと撤退を開始していきます。
信長はこれを先読みしていて、佐久間信盛柴田勝家羽柴秀吉などに先陣を命じました。
しかし、朝倉撤退時事前通達を受けていた武将たちは信長本陣の攻撃に遅れてしまい、叱責を受けてしまいます。
また、佐久間信盛はこれに対し反論してしまい、信長の怒りを買ってしまいます。

実はこの頃朝倉氏は全くと言っていいほどまとまりがなく、撤退時においてもまとまりがなく皆殺しにされたと言われています。
義景は撤退途中の刀根坂において信長軍の追討を受け、朝倉氏の軍事中核をになっていた山崎吉家河合吉統斎藤龍興こちら 参照)や北庄城主朝倉景行や当時17歳の朝倉道景などの一門衆や家臣たちが多く散っていきました。

多くの犠牲を出し、義景は一乗谷城に撤退をしますが、すぐに織田軍に包囲され、柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込み、炎上してしまいます。

義景は従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れますが、その景鏡が織田信長と通じて裏切り、200騎で襲撃をします。
そして義景はついに自刃をし朝倉家は滅亡します。

信長が朝倉義景、浅井久政・長政親子共々ドクロに金箔を塗り、信長が家臣に披露したという話を聞いたことがあるかもしれませんが、ここまでは事実だと言われていますが、『杯にして酒を飲ませた』という話は作り話と言われています。


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