1567年9月5日(永禄10年8月3日)は独眼竜で有名な伊達政宗の誕生日にあたります。
伊達政宗は伊達輝宗義姫(最上義守の娘)との間に生まれた嫡男で、幼少期に天然痘により右目を失ったことは有名かと思います。
政宗はこれにより、幼少期はとても引きこもりが激しく、人の前に姿を現すことを極端に嫌っていました。
それもそのはず、初めて政宗を見たものはその姿から皆恐怖を感じたり、気持ち悪さを感じたりしていたと言われています。
しかし、政宗は次期当主ということで気を使わなければいけない面もあり、政宗はそれを感じ取り、さらに引きこもりが激しくなっていったとも言われています。
この病にかかっていた人物としては豊臣秀頼夏目漱石徳川家光高杉晋作などもこの病気にかかっていたと言われています。


そして、政宗のこの姿を見た家臣片倉小十郎景綱は侍医のいる部屋へ政宗を引っ張っていき、あろうことか次期当主の政宗の顔を踏みつけて、自らが持っていた短刀を政宗の目に当て、一気に眼球を切り落としたといわれています。
次期当主の政宗の顔を踏みつけて、さらに刀を突きつけたことにより、この時景綱は死を覚悟し、切腹をしようとしたと言われています。
しかし、それを政宗は止め、死ぬな、生きよと言ったといわれています。

この後景綱は政宗の忠臣となり伊達家中では後に『武の伊達成実』と並び『智の片倉景綱』と言われる程になりました。
ほかには木登りをしていた政宗が枝から落ち、枝により目が取れ、それを母義姫が食べたなんていう逸話もありますが…どうでしょうね。


政宗の右目を切り落としてから暗い性格から活発な性格になったと言われていますが、やはりどうも政宗は独眼というのを気にしていたらしく晩年の政宗の肖像画には独眼ではなく両眼で描かれています。
これは政宗の遺言として伝えられ、肖像画を両眼で描かれたと言われています。
晩年片目を気にしていたとか、あるいは親からもらった身体に可欠があってはならないとし、不足した右目も書かせた等いろいろな話があります。


また、政宗の幼少の頃の逸話でこの様な話があります。
政宗は6歳頃お寺で不動明王の像を見て、その形相から怖くなり和尚のもとに逃げ出してしまいました。
そして政宗は


『何故あの不動明王はあんなに怖い顔をして自分を見てくるのですか?』


と和尚に質問すると、和尚は


『不動明王は民衆の悩みを解決するためにいろいろ努め、その思いがこのように怖い顔となっているんだよ。
また、不動明王が怖い顔をして政宗(梵天丸)様を見ているのは政宗様を見て怒っているのではなく、政宗様の弱い心に怒っているのですよ。』


と説明しました。
するとブルブル震えていた政宗はみるみる震えが収まり、和尚の話を理解したと言われています。
これを見た和尚は政宗の将来性を見抜いたと言われています。


政宗は元服後の名前ですが、当時伊達家では代々足利将軍家から名前を1字もらい名乗るのが普通でした。
例えば父輝宗は13代将軍足利義輝、祖父晴宗は12代将軍足利義晴のようにして名乗っていました。
これを偏諱(へんき)と言って、この当時ではよくある風習でした。
また、戦国時代には通字(または系字)と言うのもあり、これは先祖代々から一字ずつとる習慣もあります。
例えば伊達氏は『宗』、織田氏は『信』、『広』及び『定』、後北条氏は『氏』などがその例です。
しかし、政宗が元服をする当時足利将軍家は滅んでいました(室町幕府滅亡 参照)。
そのため、伊達氏の習慣の偏諱から将軍家の名前をもらうことはしませんでした。
ではこの政宗という名前はどこから来たのか。
それは伊達家第9代当主伊達大膳大夫政宗から取ったと言われています。
そのため、9代目当主伊達政宗と分けるため、独眼竜政宗を藤次郎政宗と呼ぶことが多いです。
このように一族の祖先から名前をとることを『先祖返り』といいます。


ちょっと長くなりそうなので一旦ここまでで…
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