1600年9月2日(慶長5年7月24日)は徳川家康上杉討伐のため会津に向かっている最中、石田三成が京で挙兵し、反徳川軍を結成したことを知った家康が(栃木県)小山において軍事評定を開いた日です(石田三成挙兵に関しては伏見城の戦い を参照してください)。
もともと上杉にはあまり興味がなかった(三成を挙兵させ反徳川軍を起こさせることが目的だったため)家康は、この知らせを聞くまでゆっくりと東に進軍してきましたが、この時家康は豊臣恩顧の武将達に対して、


『大坂に妻子や人質がいる事でしょう。
遠慮なくこの家康の元を去り石田方についても構いませぬぞ』


と言ったといわれています。
それを聞いた豊臣恩顧の武将たちは、多くは石田三成を嫌っていたため、


『私たちは石田に加担する気は全くありません。
ぜひそれがしに先陣を切らせていただけませんでしょうか。』


と言い、ここに徳川の忠義を示したと言われています。
有名な話では、山内一豊は自分の居城掛川城を家康に差し出し、信頼を勝ち取ったとも言われています。
また、福島正則秀吉より預かっていた非常用兵糧20万石を家康に差し出し、東軍(家康)につく事をここに誓ったと言われています。
実はこれは生前秀吉が家康封じのために正則や一豊等を東海道に置いていたのですが、この時を持って家康は東海道を手中に治めることになります。

ちなみに家康から三成に付いた人物美濃岩村城主田丸直昌信州上田城主真田昌幸 だったと言われています。


真田に関しては小山で評定をおこなってはいなくて、少し離れた犬伏(栃木県佐野市)というところで真田昌幸、嫡男信幸(信之)、次男幸村(信繁)の3人で親子会議を長時間行いました。
その際、なかなか姿を現さない3人を心配した足軽が様子を見に来たとき、


『貴様何をしに来た』


と昌幸に怒鳴られ、下駄を投げつけられ前歯が折れたという逸話が残っています。
そして長時間親子会議を行った折、真田昌幸、幸村親子が西軍に、嫡男信幸は東軍に付き、文字通り親子兄弟が敵味方に別れ、上田城にて戦うことになります。
これを俗に『犬伏の別れ』と呼ばれ、真田ファンの胸を痛める悲しいエピソードの一つとされています(自分の中で)。

真田親子が敵味方に別れた理由はいろいろありますが、そのひとつが婚姻関係があげられます。

信幸の正室は徳川家康の重臣で四天王の一人本多忠勝の娘小松姫で、幸村の正室は石田三成の盟友大谷吉継の娘竹林院でした。

また、昌幸の正室山手殿と石田三成の正室皎月院はともに宇多頼忠の娘と言われています。

つまり、昌幸と三成は血のつながりはないですが義兄弟ということになります。

そのため、このように3人が別れたとも言われています。

一般的な理由は東西に一族を置けばどちらかが負けてももう一方が残るため滅亡が免れるという思惑もあったと言われています。


各々の進む道がここ小山で定まってからは福島正則などの豊臣恩顧の武将は、正則の居城清洲城から岐阜城などを攻め、家康の3男秀忠は徳川四天王の一人榊原康政や大久保忠隣、参謀として本多正信などを付け約3万8千の軍勢を与え、中山道から美濃方面へ進軍を命じ、上杉・佐竹の抑えとして、次男結城秀康を総大将に、里見義康、蒲生秀行などを宇都宮城に配置し、監視をさせます。
そして家康自身は江戸城に戻りますが、しばらく動くことをしませんでした。
こうして刻一刻とそれぞれの運命の関ヶ原の戦いを迎えていくことになります。


よろしければお願いします。

ペタしてね


読者登録してね