1624年8月26日は賤ヶ岳七本槍の一人福島正則の命日にあたります。
福島正則は母が秀吉の叔母に当たることが縁で幼少より小姓として仕え1578年に三木城の攻撃で初陣を飾ります。

そして信長が本能寺で亡くなった後、明智光秀との戦い(山崎の戦い)で、勝龍寺城などで功績をあげ、300石から500石へと出世します。
また、翌年の賤ヶ岳の戦いで一番槍、一番首として一気に5千石を与えられ、大出世をしました(他の7本槍は3千石)。
この他にも小牧・長久手の戦い、九州討伐、小田原討伐、朝鮮出兵など数多くの戦いに参戦し手柄を立てています。

関ヶ原の戦いの直前には石田三成を嫌っていた正則は、徳川方につき岐阜城攻略などで戦果を上げています。
そして関ヶ原の戦いの際、石田勢と対陣を志願しましたがかなわず、それどころか関ヶ原では先陣を任されていたのですが、徳川四天王の一人井伊直政と家康の四男松平忠吉に先陣を抜け駆けされてしまいます。
これにより激怒した正則は宇喜多勢に攻撃を仕掛け関ヶ原の戦いが開戦されます。
そして関ヶ原の戦いで勝利した東軍は西軍勢から領地を大量に没収し、東軍に分け与えますが、勝利に貢献第一と目された正則は西軍総大将・毛利輝元からの大阪城接収にも奔走し、安芸広島と備後鞆49万8200石の大封を得て初代広島藩主になります


福島正則は結構大酒飲みでしたが酒癖が悪かったと言われ、酒にまつわる逸話がいくつかあります。
代表的なのが、黒田家家臣母里友信に酒を大盃で勧めたが断られたが、


『飲み干せたら好きな褒美を取らせる』


と言い、さらに


『黒田武士は酒に弱く酔えば何の役にも立たない』


と罵倒し、挑発に乗った友信は一気に飲み干しました。
翌日友信は正則から『日本号』という名槍を持ち出されそうになった際、慌ててそれを阻止しようとしましたが、友信は


『昨夜酒を一気飲みしたら褒美を取らせるとおっしゃったので私は日本号を所望します。
それとも武士に二言があるとでもおっしゃるのですが?』


と聞き入れず、渋々正則は日本号を手放す羽目になってしまいました。


福島正則の墓所は梅洞山岩松院の正則廟や妙心寺海福院などがあります。


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