1600年8月26日は関ヶ原の戦いの前哨戦と言われている伏見城の戦いが行われた日です。
この伏見城の戦いは9月8日まで続き、最後には徳川家臣鳥居元忠を始め1800人が全滅をした戦いで、徳川家康が会津の上杉討伐のため軍を東に進めている最中に起こった戦いです。
実はこの戦いは西軍の石田三成が軍を起こし、一気に反徳川を一掃するために家康が仕掛けた罠と言われています。
そのため、大義名分を手に入れるために反徳川軍に餌として伏見城を手薄な状態で残し、本陣を上洛をしない会津の上杉軍に攻め込む振りをしてゆっくりと東へと向かいます。

しかし、ここで問題になるのが、誰が伏見城を守るかということでした。
伏見城を守るのは徳川家臣でなければなりません。
またこの伏見城は必ず全滅をするということが目に見えていたため、家康はなかなか守備兵を任命することができませんでした。
そこで守備に名乗りを上げたのが三河時代から家康に忠誠を尽くしてきた鳥居元忠でした。
初めはこれに家康は賛成できませんでしたが、元忠は一歩も引かなかったため、やむなく折れて家康出陣の前日に元忠と今生の別れの杯を交わし東へ軍を進めたと言われています。

そして来たる1600年8月26日(慶長5年7月18日)石田三成ら反徳川軍が4万の軍勢を引き連れ、伏見城に攻撃を開始しました。
伏見城は秀吉が築いた巨郭でしたが、兵力差から数日で落とせると考えられていましたが、城将元忠とその兵たちの奮戦14日という時間を使ってしまうことになってしまいました。
この時間のロスにより、西軍は美濃・伊勢の攻略が遅れ、準備が不十分な状態で関ヶ原の戦いを迎えることになります。


関ヶ原の戦いでは『時間』というのがとても重要な意味を持ってきます。

これの他に信州上田に本拠をおいていた真田家を徳川秀忠率いる徳川家主力部隊が攻撃をするのですが、上田城で10日あまりの時間を使い(結局落とすことすらできず撤退)本戦の関ヶ原に大遅刻をし、秀忠は父家康に数日間会うことすら許してもらえなかったと言われています。

そして、関ヶ原の戦いで反徳川勢力の力を一気に削ぎ落とすことには成功しましたが、その恩賞のほとんどが徳川勢力ではなく、豊臣恩顧の武将達に分け与えなければならなくなってしまい、秀忠の遅参で家康は計画の半分が失敗してしまうことになりました。


余談ですが、石田三成は城攻めがあまり得意ではありませんでした。
過去にも豊臣秀吉が小田原攻略をしていた折、忍城に攻め込み、利根川を利用し石田堤を作り水攻めを行いますが(水が溜まったところで籠城兵に壊され、濁流が押し寄せ石田方に多くの戦死者が出ました)、忍城が落城する前に小田原城が落ちてしまったため、戦争面ではあまりいい評価をされてはいません。


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