1486年8月25日は室町時代の武将太田道灌の命日にあたります。
太田道灌は授業などではあまり出てくるような人物ではないので一般的には知られていませんが、この人はとても有名なものを作っています。
それは…


江戸城


です。
江戸城と言ったら後に江戸幕府を開き徳川家の拠点になる城として有名ですが、江戸城はそれよりも100年以上前の1457年に築城をされています。
そして、1590年に豊臣秀吉が小田原を拠点とし、関東に覇を唱えていた北条氏を滅ぼし、徳川家康が関東を治めるために江戸を大改修しました。


太田道灌は小さい頃から結構頭が切れる人物で、父親の資清とは言い争いが耐えなかったと言われています。
有名な話としては俊英にすぎる鶴千代(道灌の幼少名)を心配して


『知恵がすぎれば大偽に走り、知恵が足らねば災いを招く。
障子はまっすぐに立っているから意味をなし、曲がっていれば役には立たない。』


と訓戒すると、鶴千代はすかさず屏風を持ってきて、


『屏風は曲がっているから立つことができ、曲がっていては倒れてしまう。』


と言い返したと言われています。
これを言われた父資清は鶴千代を刀で切り捨てようとしましたが、鶴千代はいち早く逃げ出したと言われています。


また、別の話では、資清は筆をとって鶴千代に『驕者不久』(驕れるものは久しからず)と見せつけると、鶴千代はこれに『驕者不久』(驕らざるものも久しからず)と書き、父資清につきつけたとも言われています。
何かと父資清とは言い争いが耐えなかったのかもしれませんね。


ちなみに太田道灌には子孫として太田資正がいます。
資正は関東に勢力を伸ばそうとする北条氏と幾度も戦い続け、上杉謙信の関東出兵にも参軍したりもしています(初めは北条家臣でしたが、この時北条氏康から離反・敵対します)。

また太田資正も見聞に優れた人物だったと言われています。

あるとき家臣が


北条氏武田氏上杉氏織田氏毛利氏で天下を取るとしたら誰だと思いますか?』


と質問をされ、こう答えたと言われています。


『北条氏は氏康はとても優れた人物ではあるけど子(北条氏政)がダメだ。

また、武田と上杉はお互いを意識しすぎて動けない状態にある。

一方毛利’中国地方)は西(九州地方)にばかり気を取られ、京に目が行っていない。

そう考えると織田(中部地方)は西にも東にも行き来ができ自由だ。

次に天下を取るのは織田家だろう。』


といったと言われています。

北条氏政は甲斐へ攻め込んだときできた稲穂を見て、あれで飯にしようと言った事で武田信玄に凡将のレッテルを貼られることになります。

武田と上杉は川中島の戦いで幾度も勝負のつかない争いをします。

毛利は遺言で天下を取ろうと思うなと言って死んだと言われています。

そして資正が言ったとおり、織田が京へ上洛を果たし天下に覇を唱え天下人の道を押し進めていくことになります。


神奈川県伊勢原市大慈寺に首塚、洞昌院に胴塚があり、毎年秋に道灌祭りというのが行われています。
また、日暮里駅前には騎馬姿の道灌の銅像があります。


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