1578年8月20日は『山陰の麒麟児』の異名を持つ山中幸盛の命日にあたります。
幸盛ってだ~れって思われる方も多いかもしれませんね(;^_^A
幸盛は別の名前の方がもしかしたら有名かもしれません。
山中鹿介』と聞いて歴史をかじった事がある人はピンとくるかもしれません(以下幸盛を鹿介と呼ぶことにします)。


山中鹿介は尼子氏再興のため、三日月に向かって


『願わくは、我に七難八苦を与えたまえ』


と言った逸話がとても有名です。
また、山中鹿介は尼子十勇士としても有名です。
しかし、この尼子十勇士は出版社により人物が違ったりしています。
例えば、


後太平記』では山中鹿介秋宅庵助横道兵庫助、寺本生死助、五月早苗助、藪中荊助、尤道理助、今川鮎助、植田稲葉助


立川文庫』では山中鹿介秋宅庵助横道兵庫助、寺元生死助、皐月早苗助、藪中茨助、早川鮎助、大谷古猪助、高橋渡助、荒波碇助


といった具合に微妙に違ったりしています。
もちろんこれ以外にも尼子十勇士はあります。
しかし、この尼子十勇士は後世の創作との考えが強く、実在しない(モデルのいない)ような名前も多いです。


例として、ここであげた尤道理助は『もっともどうりのすけ』と読みますし、藪中茨助は『やぶのなかいばらのすけ』とダジャレのような名前が挙げられています。
しかし、山中鹿介秋宅庵助横道兵庫助の3人は実在の人物で尼子家再興に尽くしています
そのためこの3人を『尼子三勇士』や『尼子三傑』と呼んだりしています。


さて、十勇士と言えばもう一つ挙げられるのが真田十勇士です。
真田十勇士は真田幸村の元に集まった豪傑たちで、猿飛佐助霧隠才蔵三好青海入道三好伊佐入道筧十蔵由利鎌之助根津甚八望月六郎穴山小助海野六郎の10人のことで、真田十勇士はどの出版社をとってもこれ以外にはいません。
もちろんこれらは実在の人物を素にしたフィクションですが、穴山小助は実在の人物だったのではないかと言われています。


脱線しましたが、尼子氏が毛利氏に滅ぼされてからは近畿から中国地方に勢力を拡大してきていた織田信長のもとへ行き、お家再興を果たそうとしますが、1578年8月6日尼子氏上月城籠城兵3000人に対し、迎え撃つ毛利氏は30000以上という大軍で70日にも及ぶ籠城戦の末尼子氏は降伏します。
尼子家再興軍に担がれていた尼子勝久が自害し崩壊してしまいます(第二次上月城の戦い)。
また、捕虜となった山中鹿介も備後国鞆に送られる途中に殺害されてしまいました。


山中鹿介はとても武勇に優れていたことでよく知られ、毛利氏が月山富田城に攻め寄せた際、1人で毛利軍約40人と戦い、19人を打ち取り、残りを撃退したという逸話があります。
また、品川大膳との一騎打ちも有名で、見事これを討ち取っていますが、資料によっては若干の違いがあります。


山中鹿介の墓所はいくつかあり、代表的な墓所は阿井の渡し、観泉寺、幸盛寺、本満寺などがあります。